東急大井町線の荏原駅から歩いて数分、旗岡(はたがおか)八幡神社に来た。長元三(1030)年に平忠常の乱を治めるべく朝命を奉じた源頼信公がこの地に宿営し八幡大神を祀ったのを同社の発祥としている。源氏の白旗をなびかせ武威を誇ったことから「旗岡」「旗の台」の地名の由来にもなった。鎌倉時代にこの地を治めた源氏の庶流荏原氏の崇敬も篤く、江戸時代には徳川家はじめ武家に信仰され、二月の弓の競射は有名であった。その際甘酒が振舞われる行事は今でも行われている。
絵馬殿は国の登録有形文化財。口伝によれば昭和三(1928)年に造営された当神社に唯一残る戦前の建築だ。旧社殿は昭和二十(1945)年に空襲で焼け落ちたため、終戦直後から昭和三十七年まで曳家して仮社殿として使われた。
当然のことだが、戦前の建築は東京大空襲をくぐり抜けて残っているわけで、東京に絵馬堂が少ないのは空襲でだいぶ焼けたからかもしれないと思った。
絵馬殿のすぐ横に小さな公園があり、小さい子供がたくさん遊びに来ていた。天気がよく暑い日だったので、絵馬殿の日陰はありがたかった。
細い金属の筋交いがあちこちに走っている。防犯カメラもところどころに。
絵馬殿には寺宝で品川区有形文化財になっている「猿駒止の絵馬」のコピーがかかっている。
いわゆる「拝み絵馬」が何点かあった。
この丸いのはなんなのだろう。神主さんに訊けばよかった。
すっかり何が書いてあるかわからない絵馬も多い。
「小笠原流」は弓術の流派か。さほど大きくない額なので、奉獻の字の下のスペースに矢があったのかなと想像した。
社務所でお願いしてみたところ、「猿駒止の絵馬」を見せてもらうことができた。神主さんのお話によれば、空襲の時でも鉄筋の蔵に入れていてなんとか無事だったのだという。
元治元(1864)年に奉納されたもので、大きさは1.46×1.78メートル。欅の板四枚を使っており、縁も欅である。崇敬の念の篤かった十四代将軍徳川家茂公の上洛を御神意によりとどめる意味が込められていると言われる。作者は沖冠岳(1817〜1876)で、現在の愛媛県の今治に生まれ、京で絵を学び、江戸で活躍した絵師。今年の1月には松山で回顧展が開かれている。冠岳の絵馬は他に浅草寺などにもある。人気だったのだろう。
馬はやや形式通りの描き方に見える。一方で猿は細かく毛並みが描かれ、小さくとも存在感を出している。
神馬の人形もあった。これも江戸時代のもので、文政五(1822)年の奉納。小さくてかわいい。200年近く前のものと思えないほど保存状態がよい。
絵馬の点数は多くないが、貴重な戦前の建築を見られてよかった。
◯旗岡八幡神社・・・東京都品川区旗の台3-6-12