向能代稲荷神社・恵比須神社の絵馬①(恵比須神社)
秋田県北部に位置し、秋田杉の産出などで有名な能代市(のしろし)。能代バスステーションから向かうと米代川を渡る途中の橋の対岸に見える赤い建物が向能代(むかいのしろ)稲荷神社・恵比須神社だ。
緩やかな坂に石の参道があり正面に稲荷神社が建っていて向かって左手にある摂社の恵比須神社とは渡り廊下で繋がっている。
事前にご連絡を差し上げ宮司様と氏子総代様のお手を煩わせて、内部の絵馬や奉納物を見せていただいた。目当てにしていた船絵馬の一部はこの時ちょうど県立博物館の展示に貸し出している(後述)と聞いていたので正直に言うとあまり期待しないで来たのだが、それでも立派な絵馬がたくさんあった。恵比須神社には船絵馬が多く奉納されており稲荷神社にも絵馬をはじめとして沢山の興味深い奉納物があった。量が多いので2回に分けてレポートしたい。
氏子総代様が仰るには、北前船の往来がさかんだったころ港はここ向能代にあり、船頭は入港したら必ず航海の安全祈願をしにこの神社に訪れていたそうだ。稲荷神社より恵比須神社の方がお祭りが大きく盛んで、最近まで近隣から漁師や船乗りがずいぶんたくさん参拝に来ていたらしい。
鳥居の扁額は「稲荷神社」。
石製の鳥居や狐の像、灯篭、手水鉢、石碑がある。
稲荷神社の正面。
敷石は笏谷石のようにも見える。
軒下の彫刻も立派だ。
これが稲荷神社。
奥に恵比須神社。
様々な石碑。「金比羅大権現」「庚申」「太平山」「三吉大神」など。
稲荷神社の扁額。社殿に対してかなり大きく感じる。
秋田県神社庁のウェブページによれば、祭神は豊受媛大神(とようけひめのおおかみ)、迦具土大神(かぐつちのおおかみ)、菅原大神(すがわらのおおかみ)、天照大神(あまてらすおおかみ)、大物主大神(おおものぬしのおおかみ)。
同ウェブページには由緒について、「慶安2己丑年奉祀せられ、東雲の里の豊受社と称す。向能代一郷の産土神だけでなく、旧藩時代北海より下関、大阪に往復する船多く、海上安全祈願として重きを占めていた。その後数度の火災により炎上し、古記録の残存するもの殆ど無いが、宝暦年間社頭改修時の参道敷石、御影石鳥居、前立石狐は今も存在し、又恵比須神社の御影を石に刻んだものに文化元年の年号がある。明治に至り村社に列せられたが、明治19年2月社殿類焼の災禍を蒙る。翌20年直ちに本殿を造営、明治26年を以て一切の造営を了り再建悉く成る。慶安以来変る事無く向能代の産土神として氏子等の崇敬深く、又漁業関係者の信仰も篤い」とある。
慶安二は西暦で言えば1649年だ。古くからこの地域の神社として敬われてきたのだとわかる。
・参考
http://akita-jinjacho.sakura.ne.jp/tatsujin_etc/kennsaku/noshiro/04_inari_mukainoshiro.html
・恵比須神社の絵馬と奉納物
ここからは、さっそく恵比須神社の奉納物を見ていく。
船絵馬。「神貴丸」「明治二十七年一月」「庄内賤吉」。
船絵馬。「中吉丸」「明治三十二年」「渡辺與市」。
大漁旗を揚げて走る漁船の写真。
恵比須と大黒の押絵額。色は残っているが剥落が激しい。上方に「昭和●年十月十?日」とある。
大正五年六月十三日奉納の絵馬。海から漁師たちがにぎやかに網を引き上げ、鯛のような魚があふれんばかりに獲れている様を描いている。何ともめでたい。これに近い構図の絵馬が他にも何点も奉納されていた。明らかに大漁祈願か大漁感謝のためのものだろう。秋田県立博物館企画展「北前船と秋田」ではこれと同様の図柄の絵馬を「大漁絵馬」と呼んでいた(後述)ので、以下ではそれに倣うことにする。
落款の「琴村」は塚本琴村のことだろう。仙北市の平福記念美術館に「郷土画人略歴とその周辺の系譜」というページがあり、武村文海ー岡田琴湖ー塚本琴村と系譜が追える。
武村文海(寛政九~文久三、1797~1863)は円山四条派の絵師で、平福穂庵(弘化元~明治二十三、1844~1890、平福百穂の父)の師として知られている。
岡田琴湖については石川県立美術館に作品が所蔵されており、ウェブページに詳しい経歴が掲載されていた。それによると秋田県能代市大町に村井久太郎の次男として生まれた岡田琴湖(文久二〜昭和二十、1862〜1945)は、本名を政五郎といい、10歳の頃から能代市檜山の画家豊島都山に絵を学んだ。岡田は明治13年に平福穂庵に師事したそうだから上記の系譜とは合わない、生没年が正しければ誤りは平福記念美術館の系譜のほうだろう。その後、明治20年に東洋絵画共進会褒状、明治23年に第3回内国勧業博覧会妙技賞褒状、明治28年第4回同博覧会で褒状を得ている。明治22年から日本国内を巡り始め、明治25年から北海道、九州、中国大陸、朝鮮半島を回歴して能代に帰るという生活を生涯にわたって続けた。その間、金沢に逗留し作品を残したらしい。
・参考
https://www.city.semboku.akita.jp/sightseeing/hirafuku/kyodo.html
石川県立美術館 岡田琴湖 河北潟遊図
船絵馬。かすかに「向能代」「専太郎」という字が読める。
船絵馬。「奉(納)」「當村 石谷由玄」「明治二?十五年十二月十日」「日吉丸」。
こんなものも奉納されている。「第三回秋田縣物産品評會褒状 干鰯」
「第二回水産博覧會褒状」「鰮搾粕」。
恵比須・大黒の絵馬。
大漁絵馬。魚を網で引き上げている様を描いている点は上記の琴村の絵馬と共通しているが、構図や細部は異なる。沖では船に乗った恵比寿が扇を広げている。空には雲に乗った御幣がある。このような御幣は社殿の前で参拝する様を描いたいわゆる「拝み絵馬」などでも見かけることがある。左下には「網引連中 大正六年新六月十一日 敬白」とある。
奉獻者の名が大きく書かれた額。
「日吉丸」の船絵馬。だいぶ色あせている。
恵比寿神社で特に面白いのは1986(昭和六十一)年に北海道の江差の船頭から奉納された「辰悦丸」の色鮮やかな船絵馬だ。江戸から明治頃の船絵馬は木版画を利用したものが多かったが、これは当時の図柄を踏襲しながらおそらく全てアクリル絵具を用いて手描きされている。この船絵馬の近くに飾られた瓦には北前船が彫刻されていて「淡路辰悦丸回航出展実行委員会」とある。
「辰悦丸」はゴローニン事件で有名な高田屋嘉兵衛の持ち船だ。1985(昭和六十)年に大鳴門橋の完成を祝して淡路島で開かれた「くにうみの祭典」に合わせ、造船会社寺岡造船が復元、北海道江差町から「実際に走らせて町まで来られないか」と要望があったため船を作り直し翌年5月から各地の北前船寄港地に立ち寄って無事江差町へ到着したらしい。この船絵馬はその際の航海の無事を感謝したものではないだろうか?近年その復元船のあゆみを記録した本も製作され、全国に配られたと聞く。
北前船を通した北海道と秋田と、そして全国の北前船寄港地との繋がりの意識はまだまだ根強く、その中で船乗りたちを見守ってきた恵比須神社が近年も崇敬されているのだ。
大漁絵馬。恵比須や御幣は見当たらない。魚もそれほど大きくは描かれていない。奉納は「明治四十四年十一月一日」。西暦1911年。奉納者は「漁業主 赤塚倉之助 漁夫 赤塚與一郎 大髙久治 八木傳之助 大髙菊治郎 八木与治郎 岸部佐吉 大高市松 若狭スヱ」。
船絵馬。「明治二十九年一月廿三日 奉納」。「東雲村能代 仲吉丸 渡邊與市」。
船絵馬。「明治二十三年第五月十四日」「中吉丸」。奉納者は「赤塚新吉 庄内平吉 渡辺與市 大塚斧松 三浦正兵衛 敬白」
船絵馬。奉納年は不明。「秋田縣山本郡東雲村向能代 真嶌仁太夫」「八幡丸」。
「奉納 山王丸」「大正六年一月吉日」「東雲村向ノ代」「庄内初藏 嘉七」。船が描かれているが、絵馬屋の描いた船絵馬ではなく北前船の引き札を代用したもののように見える。
船の模型。「能代市柳町 石井長吉」「稲荷丸」とうっすら描かれている。
恵比寿・大黒の色紙。
第二回水産博覧会褒状」「釣具二種 鱈釣 鱰(しいら)釣」
以下では、秋田県立博物館の企画展「北前船と秋田」に向能代恵比須神社・稲荷神社から貸し出されていた絵馬の写真を紹介する。
キャプションは以下の通り。「難船絵馬 明治24(1891)向能代恵比須神社蔵 激しい波にもまれる船を描く。遭難した人が無事に帰れたことを感謝して、こうした図柄の絵馬を奉納することがあった。大運丸・小川与七が奉納したもの」。
「大漁絵馬 明治44年(1911)向能代稲荷神社蔵 大漁に賑わう浜の様子を描き、後方には汽船、洋式帆船、和船が見える。過渡期の海の様相がよく表れている」(キャプションより)。
北前船の船絵馬のだけのコーナーもあった。そのうち9枚が恵比須神社の奉納物だった。
船絵馬「龍神丸」。キャプションは以下の通り。「船絵馬(竜神丸)明治26年(1893)能代市・恵比須神社蔵 岸部多七が奉納。別の記録によると、15反帆58石積の船」。
「船絵馬(神徳丸) 明治28年(1895)能代市・恵比須神社蔵 岸部萬次郎が奉納」(キャプションより)。
「船絵馬(仲吉丸)明治29年(1896)能代市・恵比須神社 渡辺与一(市)が奉納。渡辺の所有船長幸丸は明治36年に島根県浜田の湊へ寄港した記録がある」(キャプションより)。
「船絵馬(中吉丸) 明治21年(1888) 能代市・恵比須神社蔵 向能代村赤塚新吉が奉納」(キャプションより)。
「船絵馬 明治26年(1893) 能代市・恵比須神社蔵 向能代村菊谷清吉が奉納。4反帆の漁船が描かれている」(キャプションより)。
「船絵馬(白山丸) 明治20年(1887)向能代・恵比須神社蔵」(キャプションより)。
「船絵馬(中吉丸) 明治21年(1888) 能代市・恵比須神社蔵 向能代村庄内平吉が奉納。もう1点の中吉丸の絵馬と同じ日付」(キャプションより)。
「船絵馬(吉祥丸) 明治21年(1888)能代市・恵比須神社蔵 向能代村庄内岩吉が奉納」(キャプションより)。
「船絵馬(加福丸) 明治22年(1889)能代市・恵比須神社蔵 向能代村菊谷友吉が奉納」(キャプションより)。
・まとめ
氏子総代様によれば「木都」とよばれた能代の街は大正〜昭和ころに秋田杉材の生産で栄えたが、その反面、屋根が木を薄く切ったもので葺いてあったから一度火がつくとなかなか止まらず、古いものは大火で焼けてしまったと言っていた。
秋田県神社庁のウェブページには明治十九年の火事について書かれていた。今目にすることができる奉納物はほとんど全てそれ以後のものだろう。保存状態は必ずしも良くはないが、その量、質を見るに船絵馬を奉納する文化が明治中ごろ以降も盛んであったことがわかる。
○向能代稲荷神社・恵比須神社・・・能代市向能代字上野152(※通常は一般公開していません)