王子製紙の工場や苫小牧港を有する北海道苫小牧市付近の開拓は、1800(寛政十二)年の八王子千人同心と呼ばれる幕臣一団の移住に始まるとされる。その最初の入植地が勇武津(ゆうふつ、現在の苫小牧市字勇払)であった。明治に入り開拓使出張所は当初勇払に置かれ、のち苫細(現在の苫小牧)に1873(明治六)年に移転、これが市の開基となっている。
千人同心の入植以前にもすでに1669(寛文九)年頃の『津軽一統誌』に「勇払在家百軒東蝦夷地屈指なり」の記録が残されているらしく、1799(寛政十一)年に幕府が東蝦夷地を直轄した際に勇武津会所(交易所、幕吏の出張所のこと)がおかれたのは、太平洋側では函館から千島へ、日本海側では石狩を通って樺太までのルートの分岐点にあたる交通の要所であって、また勇武津の内陸部シコツは鮭漁が盛んな地域でもあったことがその理由としてあるようだ。
その勇武津におかれた「場所」(アイヌと交易を行う特定の地域のこと)である勇武津場所をはじめ蝦夷地の多くの場所の支配人を勤めたり請け負ったのが能登出身の商家で代々文右衛門を名乗った山田家で、勇払恵比須神社には山田家による奉納物がたくさんある(場所請負についてはこちら)。山田家が勇武津場所を請け負ったのは八代文右衛門有智の晩年の1821(文政四)年、そこから1868(明治元)年まで山田家の請負であった。
苫小牧市のウェブページによれば勇払で最も歴史的に古い由来を持つ堂社は、およそ18世紀(1701~1800)半ばに設立された弁天社といわれ、ほかに勇払の堂社には山田家が創建した竜神社などもあった。それらのうち、弁天社、竜神社に加え大黒天社が統合され事代主社となり、これが現在の恵比須神社の前身となったという。
ちなみに北海道神社庁のウェブページでは恵比須神社の創建について、正確に記録された文献等がないが1951(昭和二十六)年4月時の神職である永井暁が北海道庁に提出した神社明細報告では、南部左井の住人樋口某奉納の宮形(神棚)の側面に墨書された1850(嘉永三)年9月9日としている。南部佐井とはおそらく旧南部藩領で現在の青森県佐井村のことで、下北半島西側に位置し1803(享和三)年に幕府が佐井を蝦夷地渡航の港と定めて以来明治初頭に至るまで北国廻船(弁材船・北前船)の往来があり、海産物と木材の積み出しで繁栄した場所だから樋口某もやはり山田家に関係のある商人や使用人だったのだろうか。
当神社は従来『蛭子(エビス)神社』の社号で祀られたが、1952(昭和二十七)年3月現社号『恵比須神社』と変更した。1957(昭和三十二)年、勇払107番地の社殿を勇払138番地に移転改築し今日に至っている。
1961(昭和三十六)年10月、当神社の奉納品21点が苫小牧市指定文化財として指定されている。
以下ではこの神社に奉納された絵馬や扁額を見ていく。なお実物は苫小牧市美術博物館に所蔵され、今回見たのは神社置かれている複製品である。神職さんに伺ったところ現物は図像がほとんど判別できないほど傷んでいるらしい。
(※参考・北海道神社庁:https://hokkaidojinjacho.jp/%E6%81%B5%E6%AF%94%E9%A0%88%E7%A5%9E%E7%A4%BE/)
(※参考2・苫小牧市 市指定民俗文化財 勇払恵比須神社奉納品21点
https://www.city.tomakomai.hokkaido.jp/kyoiku/shogaigakushu/bunka/bunkazai/shinobunkazai/ebisu.html
)
(参考3・ロバート・G.フラーシェム, ヨシコ・N.フラーシェム『蝦夷地場所請負人 山田文右衛門家の活躍とその歴史的背景』北海道出版企画センター、1994年)
3枚の扁額。「住吉丸」は勇武津場所請負人の山田文右衛門の持ち船の名前。
「樽前大權現」とは、苫小牧市の総鎮守である樽前山神社の江戸時代の呼び名。なお樽前山神社には1865(元治二)年に奉納された手水鉢があり、「願主 山田文治 支配人 山田仁右衛門」と刻まれている。これは山田家十一代山田文治と支配人山田仁右衛門によるもの。山田仁右衛門家は七代山田文右衛門の娘の蔦が別家した家。
「雙鶴」は縁起のいい字を扁額にして奉納したものか。
扁額「辯才天」。「東武墨水面龍眼拝書」の刻文に加え二か所に印があるらしい。
扁額。「奉納 樽前大権現」。1865(元治二)年に函館の商人である杉浦嘉七と支配人の福島屋金四郎が奉納したものとキャプションにある。なお杉浦嘉七は四代続いており、この時は二代(?~1876(明治九))だろう。
(※参考:コトバンク 杉浦嘉七(2代)
https://kotobank.jp/word/%E6%9D%89%E6%B5%A6%E5%98%89%E4%B8%83%282%E4%BB%A3%29-1083596)
扁額「弁財天」。彩色や金箔が剥がれ落ちてしまい白木になったらしい。
句額。キャプションによれば1840(天保十一)年に奉納されたもの。「松前 香風」「幽里」の文字が見える。奥羽俳壇四天王中の長ともいわれ与謝蕪村の最初の注釈書『蕪村発句解』をあらわした俳人の岩間(松窓)乙二が1810(文化七)年に箱館に渡り高龍寺の付近に庵を結んで「斧柄社(おののえしゃ)」と称したのが蝦夷地最初の俳句結社であるという。「香風」と「幽里」もその流れをくむ俳人かもしれないし、場所に関わる商人の俳号の可能性も十分ある。
(※参考:コトバンク 岩間乙二
https://kotobank.jp/word/%E5%B2%A9%E9%96%93%E4%B9%99%E4%BA%8C-15586
)
(参考:函館市史 通説編第1巻 第3編 古代・中世・近世 第4章 松前家復領と箱館
第7節 宗教・教育・文化 3 文化 乙二と「斧柄社」P544-P545
http://archives.c.fun.ac.jp/hakodateshishi/tsuusetsu_01/shishi_03-04/shishi_03-04-07-03-02.htm
)
絵馬。「奉納 御寶前」「文政元歳」「戊寅六月吉日」とある。西暦でいうと1818年。キャプションによれば1818(文政十一)年に奉納されたものらしい。図柄は仁田四郎忠常の猪退治。ここに書かれた富士山を樽前山への見立てと言ってしまうのは無理があるだろうか。
縦長の絵馬。教育委員会のサイト等では単に「騎馬武者」とだけされているが、長烏帽子の兜、前立の蛇の目、片鎌槍から考えて、馬上の人物は加藤清正で間違いないだろう。背に差した旗にはお題目が書かれていたのかもしれない。
吊灯籠がふたつ。「願主 山田文治」「支配人 山田仁右エ門」とある。先述の樽前山神社の手水鉢も同じ二人が寄進している。
石灯籠の笠が重石として活用されている・・・。
この日はちょうど祭禮の日で社務所に神職さんや氏子さんがたくさんいらっしゃっていたので奉納物を見せていただくことができた。お忙しいところご面倒をおかけしてしまった。
円形の手水鉢。八方(東、西、南、北、艮、巽、坤、乾)が刻まれている。足の部分には「文久四甲子年正月吉日」「願主 請負人 山田文右衛門」「支配人 山田仁右衛門」とある。文久四年は西暦1864年。寄進者の山田文右衛門は十代清富。これは方角石を模した珍しいもの。方角石とは、船乗りが空模様をみたり役人が港に出入りする船を確認するのに使った高台である日和山にしばしば置かれた方角を刻んだ石のこと。
なおこの手水鉢とほぼ同じものが浜中町榊町の金刀比羅神社にあり、寄進年月は刻まれていないが山田文右衛門とある。町名は十代文右衛門清富の娘婿である榊富右衛門に由来するそうだ。
一対の石燈篭。「文久四甲子月日」「願主 請負人 山田文右衛門」「支配人 山田仁右衛門」「通詞 喜兵衛」「帳役 和兵衛」とある。上記の手水鉢と同じタイミングで寄進したものか。
「奉納 日高石」。
1952(昭和二十七)年3月の社号変更前の「蛭子神社」の石柱。
土俵があった。
王子ネピアの工場の煙突が見えた。