(大井神社拝殿)
・大井神社への道のりと境内の様子
水戸市の中心部からバスで30分程、市街地を過ぎ田畑の広がる風景のなか「大井神社前」のバス停で降りると小山の麓に小さな石橋が掛かり、白い石の鳥居と「延喜式内」と彫られた石柱が建っていた。ここが水戸地域で最も古い神社のひとつである大井神社だ。鳥居の横の境内案内の看板を見ると絵馬殿は拝殿のすぐ右にあるようだ。斜面の急な石段を上っていく。途中、大木の切り株の洞に小さな御幣が祀られていたり(二寅霊神)、素朴ながら凝った飾りのついた手水舎と並んで小さな池に石橋が掛かる弁天社(意冨比(おおい)弁天巽神社)があった。
(二寅霊神)
(意冨比弁天巽神社)
(鯉がいた)
(手水舎の飾り)
坂を上りきると木の真新しい鳥居があり正面に拝殿、周囲に絵馬殿・神輿殿を含むいくつかの建物がある。拝殿は扁額や木鼻が緑や白、黒を基調として塗られていて印象的だった。拝殿や位牌殿の軒下には氏子さんたちが奉納したのだろう、晩秋らしく黄色や白、薄いピンクの菊の鉢植えがたくさん置かれていた。
(御袋様)
(拝殿)
(拝殿向かって右方向の建物。左にあるのは絵馬殿・神輿殿。右は位牌殿)
(位牌殿)
(軒下の菊)
拝殿の裏にまわると大きなご神木や本殿があり、八方神や疱瘡神社、天神様、稲荷神社・金比羅神社などなどたくさんの祠が並んでいる。
(本殿)
(馳出神社(保食神)の祠。絵馬が掛かり馬のぬいぐるみがあった)
(八方神。苔むしている)
(伊勢金比羅参り碑)
(氏神舎蒿宝殿。他ではあまり見たことがなく興味深い)
・大井神社の概要と水戸の開基
大井神社の祭神は大和朝廷から国家統一のため東国に派遣されてきた建借間命(たけかしまのみこと)、配祀は木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)。御神徳は建政・開発また安産の守護神とされる。石柱にも彫られていたように大井神社は延喜式内社論社と呼ばれるこの地域随一の古社のひとつで那珂郡7座の筆頭社とされているそうだ。
大井神社に祀られた建借間命は軍船を率いて霞ヶ浦に入り鹿島・行方地方、さらに那珂川流域一帯を切り開いたので朝廷から那賀国造(なかのくにのみやつこ・なかこくぞう)に任命されたという。那賀国は当初、この大井神社を含むいまの水戸市飯富付近を根拠としたとみられ飯富にはこの地方で最も古いとされる安戸星(あどぼし)古墳があった。那賀国造について『古事記』では、神武天皇の第一皇子を祖先とする九州の意富臣(おおのおみ)・火君(ひのきみ)・大分君・阿蘇君や道奥(みちのく)の石城国造(いわきこくぞう)と同族であると記され、『水戸市史上巻』でも「仲国造の初祖建借間命は、火の国造家から別れた意富臣の一族であり、火の国を中心に根拠をもち、東国に進出したという説が有力である」と記されているらしい。この「火の国」とは古代の北九州地方の名称でのちに肥前、肥後に分かれた地域のことを指すそうだ。
大井神社は応永(1394~1428)、天正(1573~1529)年間と2度の兵火にあっており、寛文八(1668)年には水戸藩二代藩主徳川光圀の命で社殿が修営され、安政(1855~1860)年間には九代藩主徳川斉昭の命で現在の拝殿が造営された。文化財としては神域より出土した円筒埴輪、徳川光圀が延宝五(1677)年9月に奉納した神鏡、天保五(1834)年6月16日に徳川斉昭が奉納した画額「鶴」「蘭金筆」、明治六(1873)年に徳川昭武(水戸藩十一代藩主で斉昭の十八男)が奉納した良弓一張がある。「水戸学」と呼ばれる独特の学風に深くかかわる二人の水戸藩主の庇護を受けているのは興味深い。
(参考:茨城県神社庁 水戸市鎮座大井神社http://www.ibaraki-jinjacho.jp/ibaraki/kenou/jinja/01042.html / 水戸商工会議所 郷土いいとこ再発見 水戸の始まりの史跡と信仰 https://mito.inetcci.or.jp/110iitoko/shinkou/)
・絵馬殿
大井神社の絵馬殿は神輿殿と絵馬殿が合体しているタイプだ。向かって右が神輿殿。左が絵馬殿になっている。拝殿の向かって右側にほぼ東を正面にして建てられている。
「神輿殿絵馬殿建設特殊寄付 平成十八年十一月吉日」とある。
(右が拝殿。左が神輿殿・絵馬殿)
絵馬殿の内部を見ていく。四方の天井に近い壁に段がついていて二段掛けのようになっている。
絵馬殿を正面から見た時の向かい合う壁面(西側の壁面)から絵馬や奉納物を見ていく。まず上の段左側から。
卵を抱く蛇の絵馬。やや色あせているが白や赤が色鮮やか。蛇の目つきも鋭く印象的。左下に落款があるが読めず。わずかに「昭和」と書かれているのが判別できる。
中央の「大井神社」の扁額。「従四位勲四等小野田元熈」とは、嘉永元(1848)年に館林藩士の子として生まれ警視庁や内務省に勤務したのちいくつかの県知事を歴任、貴族院議員にもなり大正八(1919)年に死去した小野田元熈(おのだもとひろ)のことだろう。明治三十(1897)年4月から1年ほど茨城県知事を務めている関係で揮毫したのではないだろうか。
(参考 国立国会図書館リサーチナビ 憲政資料室の所蔵資料>憲政資料> 小野田元熈関係文書(その1)https://rnavi.ndl.go.jp/kensei/entry/onodamotohiro1.php)
不定形の木材の形は雲のようで龍によく合っている。筆致はやや手慣れていない感じがする。上部に「奉獻」右の方に薄く「大正十一年陰暦四月十日」「辰巳會〇応需?」「幽?石筆(方印)」「心願成就」とあり、龍の下には願主がいろは順で書かれている。絵馬殿内にはほかにも同じ「幽石」という名の絵師の作品らしき絵馬があったがいまのところ詳細は不明。
西側の壁面の下の段は巫女さんと神主さんが写った写真や境内の写真がある。左端の写真は奉納年こそ新しいがよく見ると右下に「〇〇相撲大会記念(昭和廿四年十月九?日)」とある。
龍と背に乗る弁財天?の図。画材不明。最近の奉納物だろう。
ここからは向かって右の壁面(北側)を左上から見ていく。上の段には比較的大きな絵馬が2つ。いろんな奉納物がある中で、下の段の右上には小絵馬がたくさんある。右下の窓からはお神輿が見える。
牛が描かれている。上に「奉獻」、右に「大正乙丑十四年」「正月癸丑六?日」「飯富耕牛組合員應需」「幽石謹冩?」(方印)(方印)とあり、下に奉納者の名前、左側にも文字があるが読めない。
画題は日本武尊(やまとたけるのみこと)だろうか。左上に「獻」、奉の字が見えないが右上のどこかに書かれているはず。右下に「大正辛酉十年正月十四日」「己卯同年會員?應需」「幽石?謹冩」(方印)(方印)と記されている。左下に願主の名前。己卯(つちのとう)同年會が何なのか不明だが明治二十二(1889)年は己卯であるので何か関係があるかもしれない。
薄くなってしまっているが十二支が描かれている。「昭和丁巳一月七日」は1977年、昭和五十二年。中央に描かれた蛇は卵を抱いているようだ。
下の段の奉納物を見ていく。絵馬の上に絵馬が打ち付けられている。「拝み絵馬」や神馬を描いたらしき絵馬が多い。
大きな寄せ書きのような絵馬、箒や瓢箪も。
下の段右上には小絵馬が8点ある。上の4つを左から順に見ていく。
長い弓を持った武将が木の陰から周囲を伺っている。左にはその武将の持ち物らしき兜をもった家臣が控えている。右の縁に「明治・・・」とある。
人物?の帽子から三番叟だろう。よく「猿の三番叟」が画題として描かれるが、サルかどうかはわからなかった。
馬と御者が描かれた曳き馬の図。左上に「明治九年」「子 三月吉日」とある。明治九年は西暦1876年。
韓信の股くぐりの図。
能の「高砂」の絵馬。亀はいるが鶴が見たらない。
いわゆる拝み絵馬。素朴な筆致でつい笑ってしまう。
「奉獻」「心願成就?」「明治四拾四?」とかすかに読める。
司馬温公のかめ割り図。「明治参拾四稔十壱月」。
馬が描かれている。
神事を記録した写真だろうか。このときは朝早く参拝したため神職さんや氏子さんと出会うこともなかった。気になる。
絵馬殿の東側の壁の奉納物を左側から見ていく。
拝み絵馬の一種。参拝者を背後から捉えている構図が面白い。
大正十(1921)年奉納の写真。大井神社の拝殿の前で撮ったのだろう。
「大大神楽」と「大井神社」の額。
大蛇の頭は一つしか見当たらないが素戔嗚尊(スサノオノミコト)の八岐大蛇退治だろう。右下に「南岳?」という落款がある。左に「明治六年十一月」、その下に奉納者の名前がある。
こんな奉納額も。
向かって左、南側の壁面を見る。神前結婚式らしき写真に混じって絵馬もある。
那須与一だろうか。比較的新しそう。絵師については不明。
先ほどのかぼちゃの絵と同じ方の作品。「絵手紙風」とでもいうのだろうか。太い描線で野菜など静物の輪郭がとられ比較的平板に少ない色数で着彩されている。余白には教訓めいた詩が書かれ方印が捺されている。
絵馬殿を見たあとですぐ近くの竜神の祠や愛宕神社に行ってみた。
石仏群。明らかに頭だけ素材の違う石仏がいくつか。
「女龍神竜光水」の碑と祠。横に男性器を模したらしき石が。山の下の方を見ると水路になっているようだった。
芭蕉の句碑と遅月上人の句碑というものらしい。
愛宕神社。
(帰りはバスで水戸市中心部へ)
・まとめ
神輿殿と一緒になった絵馬殿を見たのは初めてだった。龍や蛇を画題とした絵馬が多かったのは女龍神の信仰に関わるものだろうか。様々な画題の小絵馬がたくさんあったのも印象深い。この神社の信仰や絵師、奉納物について分からないことが多かったので機会があれば引き続き調べてみたい。