(青梅神社の拝殿)
・青梅神社までの道のりと概要
東武鉄道館林駅の東口を出てまっすぐ進み、中央通りと交わる「館林駅入口交差点」を左折し少し進むと道の左側に青梅神社の鳥居と石柱がある。住宅に挟まれた細い道を抜けると周囲からは想像できないほど大きな赤い絵馬殿(神門を兼ねている)が現れる。その先には左右に石の狛犬が置かれ梅の木が生えた短い参道があり、奥には絵馬殿と比べるとやや小ぶりに思える拝殿、さらに本殿がある。
(館林駅東口)
(マンホール。昔話の「分福茶釜」の舞台である茂林寺は館林市内にある)
(鳥居。奥に赤い絵馬殿が見える)
(鳥居につけられた扁額と鳥居脇にある石柱)
(境内にある看板)
青梅神社の祭神は「梅」の字から容易に連想されるように菅原道真公と、素戔嗚命、猿田彦神だ。左大臣藤原時平の一派によって大宰府に左遷されることになった菅原道真が「東風吹かば匂ひをこせよ梅の花 主なしとて 春な忘れそ」と詠い楊枝の先に梅の身を刺しそれぞれ東西南北四方に投げたうち、東に飛んだ地に建つのが青梅神社である(他の3か所は花久里梅(島根県)、飛梅(福岡県)、四季梅(香川県)とされる)。
青梅天神や青梅天満宮とも呼ばれる青梅神社の鎮座年紀は1471(文明三)年〜1562(永禄五)年頃迄とされ、1595(文禄四)年に徳川四天王にも数えられる武将の榊原康政によって現在地に移転されたと伝えられている。
1631(寛永八)年に建てられ1862(文久二)年に改修された拝殿の格天井は浮世絵師の北尾重光が筆をとっているらしい。近所に住むお年寄りに伺ったところによれば夏祭りと年末年始には拝殿の中を見られるそうだ。
絵馬殿は1631(寛永八)年に建てられ1794(寛政六)年に再建されたという。(以上、境内の看板と館林市ウェブサイトより)。
・(参考 館林市 観光・文化・イベント > 観光・物産 > 観光 > 歴史の小径 歴史薫る散策路 (6)青海天満宮
https://www.city.tatebayashi.gunma.jp/s020/kanko/020/070/010/20200104070000.html#oume )
・青梅神社の拝殿・本殿など
参道脇には赤い滑り台と鉄棒が。
拝殿にもいくつか扁額が掲げられている。
境内地の周囲には石碑も点在していた。
・青梅神社の絵馬殿
青梅神社の絵馬殿は柱や壁が赤く塗られており神門を兼ねている。塗装の禿もあまり見当たらない。かなり立派だ。参道は東南東から西北西に向かって伸びていて、神門へ向かって右の壁面は北北東、左の壁面は南南西に面していることになる。
瓦には梅の紋がつき、絵馬殿の各所にも装飾がある。
扁額。「安永七戊戌・・・」とある(西暦1778年)。
・絵馬殿の内部
建物の規模の割に絵馬は少なく、大絵馬が6面内部に掲げられているのみだ。
拝殿側の壁面(西北西)から時計回りに絵馬を見ていく。
一ノ谷の合戦図の絵馬。画面左上方に平敦盛を、画面手前中央に熊谷直実を、右上に源氏方の将兵を描く。だいぶ彩色は剝げ落ちているが、敦盛の端正な顔立ちは辛うじてわかる。
一ノ谷の合戦図の絵馬の左右には番付のような奉納額が。文字や絵はまったくわからない。
金具が付いたかなり立派な絵馬。よく見ると左側に描かれた豪傑は右手で人を持ち上げているのが宙に浮いた太刀でわかる。右手に逃げ去ろうとする敵に投げつけようとしているのだろうか。豪傑の足元にも鎧の一部があるようなので人を踏みつけているのかもしれない。右下に奉納者の名前が書かれている。落款は左下にあるが判読は難しい。
おそらく青梅神社の境内図。瓦屋根や軒先の提灯?に梅の紋が見える。画面の下の方には参拝者が。
「楠公桜井の別れ」の絵馬だろう。楠木正成・正行父子の頭は剥がれ落ちているが正成の胴体の家紋はよくわかる。
正成の右上に「奉」正行の上に「獻」と「嘉永弟?〇龍集?」「庚戌秋?八?月」とある。ちなみに嘉永庚戌は三年、西暦1850年。正行の左手には絵師の名があるが「〇齋?龍?〇謹?冩?」としか読めない。
・小絵馬掛け
小絵馬掛けには正五角形の小絵馬が。近くの商店で買えるらしい。
・まとめ
大きな絵馬殿の割に絵馬の数は多くなかったが、奉納された当時はかなり立派だったであろう大絵馬を見ることができた。絵馬を眺めている時に出会った近所に住むお年寄りによれば、消防団員が掃除しようとして拭いて絵の具を剥がしてしまったのだという。祭神に関わる絵馬は境内図のみだった。浮世絵師の北尾重光が筆をとったという拝殿の天井画も見てみたい。