(苔の生えた屋根が印象的な摩氣神社の拝殿)
・摩氣神社までの道のり
朝早く起き5時30分頃の電車でJR京都駅を出発。夜が明ける前の暗い車窓を眺めながら朝食に軽くパンを食べた。JR嵯峨野線園部駅で下車したのは6時15分頃。駅前に建っている大きな鉄塔が妙に印象に残る。
駅前には謎の石像が。
案内板を見ると園部駅周囲にいくつか大学があるのがわかる。
京阪京都交通バス園篠線に乗車。「摩気神社前」で降りて辺りを見渡す。だんだん夜が明けてきた。バス停のすぐ近くの道の右側に大きな台座に載った石灯籠があり、その左奥の道沿い、朝日を受けて光る田んぼの脇に柵に囲まれて「式内 名神大社 摩氣神社」と彫られた石が建っていて、神社への道の目印になっている。
さらに立派な民家の間を抜けて進むと園部川にさしかかる。擬宝珠が載った木製の欄干を持つ小さな橋(摩気橋)が架かっていた。ここちよく水が流れる音を聴きながら橋を渡り交差点にさしかかるとすぐ右側に自然石をそのまま積んだという風情の灯篭が現れた。ここを直進してしばらく歩くと摩氣神社の鳥居が見えてくる。
・鳥居
朝の冷たい澄んだ空気の中で見る鳥居には威厳が感じられ背筋が伸びるような気がした。やや細いしめ縄が掛けられ経年変化で黒ずんだ石でくみ上げられている。見上げると青銅製らしき扁額が掲げられていた。彫刻された文字は「式内 摩氣神社 正四位小出英尚書」。小出英尚(こいでふさなお、1849(嘉永二)~1905(明治三十八))は丹波園部藩小出家十代目にして最後の藩主。鳥居自体は1672(寛文十二)年、小出吉久の建立(境内の南丹市教育委員会設置の看板より)。鳥居の右には「延(?)喜式内 摩氣大社」と彫られた石柱と、風化して読めなくなった由緒書が、左には年季の入った火の用心の看板が立つ。参道の先に目をやると大きな神門が見えた。
・神門
神門は山間の集落の神社にしては大きく、軒下の木組みや彫刻もかなり立派に感じる。1808(文化五)年の建築(境内の南丹市教育委員会設置の看板より)。門をくぐり抜けると裏側に油絵が飾ってあった。いくつか由緒を書いたらしい看板も掛けられているが風化して字が読みにくい。傍には腰掛けが置いてあった。
山門を抜けると右手には社務所、左手には手水舎や絵馬舎があり、正面には拝殿、左右には小さないくつかの境内社が立ち並び奥に覆屋のある本殿が建っている。絵馬舎は後でゆっくり見ることにしてまず拝殿を経て本殿へお参りする。
(手水舎)
(左が絵馬舎、右が拝殿、奥が本殿の覆屋)
・拝殿
黄みかかった緑の苔が屋根に生えた拝殿。早朝、ぜいたくに静けさの中で建物を独り占めして眺める。風格があるが昭和初期の建築らしい(境内の南丹市教育委員会設置の看板、絵馬舎の項目より)。
周囲には境内社が並んでいる。
・本殿
本殿と左右の摂社に参拝する。覆屋にも拝殿と同じように黄緑色の苔が生えている。
本殿と摂社は明和四(1767)年の建築。本殿は建築様式を「一間社流造」といい、この形式としては京都府下では最大のもので、摂社は例の少ない切妻造だという(境内の南丹市教育委員会設置の看板より)。境内の奥にはなだらかに山へ斜面が続いていた。美しいひさしの木材の並びや立派な彫刻を眺めていると神職さんがやってきてご飯を供えていった。境内にはかまどもあった。
・摩氣神社の概要
摩氣(まけ)神社が所在する園部盆地は京都府南部地域の北端、「南丹」や「口丹(くちたん)」とよばれる地域の北西端に位置する。その園部盆地の最西端、かつてあった寺院の名前から付けられた胎金寺山(たいこんじやま)の北にこの神社は鎮座している。祭神は大御饌津彦命(おおみけつひこのみこと)。
創建は古く平安時代に編纂された『延喜式』神名帳に記載されたいわゆる式内社で「船井郡の明神大社」と記されている。摩気郷十一ヶ村の総社として崇敬を集め、承暦三(1079)年には白河天皇の行幸の折、「船井第一摩気神社」の勅額を賜った。
江戸時代には園部藩主小出氏の崇敬を受け祈願所になった。元禄年間(17世紀末)には本殿の修理を始め覆屋や拝殿、楼門、石鳥居等の再建や建立といった社頭整備が藩費によって行われた。その後 宝暦十一(1761)年に火災で社殿を含む境内一円がほぼ全焼し古記録や宝物類も失われたが、明和四(1767)年に当時の園部藩主・小出英持(こいでふさよし、1706(宝永三)~1767(明和四))の援助や氏子の寄進により本殿や東西に並ぶ二つの摂社が再建され、これがいま現存している。1984(昭和五十九)年4月14日、本殿、東西の摂社が京都府指定文化財に、絵馬舎、神門、鳥居が京都府登録文化財になった。
拝殿の茅葺きの覆屋は趣があるが、日が当たりにくい北を向いており屋根には苔が生えやすく雨漏り等の問題も生じていたため、2021年3月に11年ぶりにふき替えられた(私が参拝したのはふき替えの直前だった)。
http://www.pref.kyoto.jp/furusatokifu/1355203876827.html
京都新聞拝殿のかやぶき屋根、11年ぶり「ふき替え」 京都・摩気神社(2021年4月8日 7:00)
https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/542622
・摩氣神社の絵馬舎
ここから絵馬舎を見ていく。
入母屋造り鉄板葺きの絵馬舎は本殿と同じく明和四(1767)年、小出英持による建築。絵馬舎はもともと拝殿として使われており昭和初期に拝殿の新築に伴い移築され再利用された。もとは茅葺きで妻を正面に向けて建てられていた(境内の南丹市教育委員会設置の看板より)。ちょうど神職の方がいらしたので伺ったところによると、以前は拝殿で信者の方をお祓いしたりしたという。
本殿は北に面して建っていて参道は当然南北に伸びている。絵馬舎は本殿からみると北東に位置し参道を正面とすれば西向きとなる。
絵馬舎の天井は2本の横木で区切られ3つの区画の内側に向けて四方から絵馬が掛かっている。
絵馬舎は江戸時代中期の建築だがそこに掛かる絵馬は江戸中期はもちろん最近のものまで様々だ。
・参道側の区画の絵馬
参道側から見て手前に掛かる絵馬を正面から時計回りに見ていく。
太鼓を叩いたり踊ったりしている女性たちが描かれている。盆踊りの様子を描いたものだろうか。柱が背後にあるのでどこか建物の屋根の下にいることが分かる。拝殿だろうか。画材は日本画のそれかもしれない。平成十三(西暦2001)年五月奉納の比較的新しい絵馬。
鞍に御幣を立てた神馬の絵馬。これも平成十三年五月奉納で「創祀壱千弐百年奉祝祭」とある。先の絵馬も一緒に創祀1200年を記念して奉納されたのだろうか。
写真も奉納されている。
絵馬の裏には扇形の奉納物(これも絵馬と言っていいのだろうか?)が、たくさんある。すっかり退色しているが筆跡が残っていて読めそうだ。どれも上に文字が書かれ下に羽織姿の男が描かれている。
扁額「精華」。「為明治三十七八年戦役従軍記念」「竹井區」「軍人中再?拝」とあるので、日露戦争後に地元の在郷軍人会によって奉納されたのだろう。蝉の抜け殻がくっついていた。
縄が付いた奉納額。縄の上、「奉」と「納」の字の間に四角い部材がある。ここにかつては何か付いていたのかもしれない。縁には「昭和三年十一月吉日」「大禮使御用」「帝國在郷軍人會摩氣村分會」とあり、昭和天皇の即位式が京都御所で執り行われた際に儀式のどこかで使用されたのち下賜された縄だろうか。
神社への寄進者の名札がずらっと並ぶ上に二人の従者が馬を牽く絵馬。「昭和〇〇年」「五月吉辰」、絵の周辺には「社司? 正延謹冩」「宮講者」「周旋人」とあり奉納に関わった人々の名前が書かれている。
扇形の奉納物。上の人物の羽織が白い。他は線描の跡が見て取れるだけだが彩色されていた箇所もあったのかもしれない。
・中間の区画の絵馬
前に説明した通り、絵馬舎の天井は2本の横木で区切られ3区画の内側に向けて四方から絵馬が掛かっている。次に参道側から見て二番目、中間の区画に掛かる絵馬を時計回りに見ていく。
折烏帽子を被り手に檜扇を持ち太刀を差す人物の押絵の額。「明治三十四年五月吉辰」左右をよく見ると縁に奉納者の名前がたくさん書き込まれている。
「戦没勲功者名録」「奉勅 明治三十七八年従軍記章條個?依 陸軍大臣奏請ヲ経テ明治三十九年三月三十日勅定従軍記章授與ス 明治三十九年四月一日」・・・「奉懸 明治四十四年十月吉日一同」とあり、日露戦争に従軍した兵士の従軍記章が授与された記念の奉納額と分かる。
押絵の花かご。「明治四十一?年十月?」。
花かごの押絵額のすぐ横、武者の絵馬の裏にも扇形の奉納物が。
騎馬武者の絵馬。
武者の絵馬の右側からも扇形の奉納物がたくさん除いている。
大工さんたちが手斧やらカンナを使っている様が描かれた絵馬。摩氣神社の建築に関わる絵馬だろうか。
傷みが激しい絵馬。「奉納」の字は金色にも見える。右の方に微かにある字は「鶴山?」と読める。中央の絵は何が描かれているのか全くわからない。このシルエットは……?
牛が描かれた絵馬。右の方に絵師らしき墨書と落款が二つ。
水に浸かる騎馬武者の絵馬。右手で鞭を振り上げている。
軍人の拝み絵馬。
恵比寿大黒の絵馬。今でも鮮やかだが奉納された当初はもっと鮮やかだっただろう。「明和九歳辰二月」とあるので西暦で言えば1772年、約250年前の絵馬。江戸では明和の大火が起きていた頃だ。
恵比寿大黒の絵馬の裏にもたくさんの扇形絵馬が。
・奥の区画の絵馬
ここからは、3区画のうち参道側から見て三番目、最も奥の区画に掛かる絵馬を時計回りに見ていく。
押絵額。たくさんの女性が形作られている。「明治二十三年庚寅年四月吉日」。「教員 小畠ぎん」「生員……」とあるので何らかの師弟関係のもとで作られたことがわかる。右上の画題らしき短冊には「養蠶皇國榮」とある。調べると明治十一(1878)年に発行された梅堂国政の浮世絵で同じ題の作品があり、皇居で行われている宮中養蚕の様子を美人画として置き換えて描いている。見比べると花瓶や庭、養蚕の道具などモチーフも共通するのでそれを参考にしたものだろう。
https://twitter.com/UTokyoEconLib/status/1166141073795629056?s=20&t=FN-5MgybZz5x6dFo04XPaQ
船絵馬。帆掛け船が手前に2艘、奥に8艘。他の絵馬に比べて金具が立派だ。摩気神社のような山間の神社に船絵馬が奉納されるのにはどのような経緯があったのだろうか。
傷みが激しい奉納額。押絵が入っていたのだろうか?布と何かの枝が残る。「明治四十一年四月」、「上田俊 門弟……」とある。
この絵馬も傷みが激しい。後ろの扇形奉納物が見えてしまっている。槍や太刀、すね当てのようなものが描かれているのが分かる。
「明治廿三年七月吉(日)」とある絵馬。
この絵馬も傷みが激しい。「明治廿九?年一月吉日」とある。松の下に箒を持った翁らしき姿がみえるので、その左にいるのは媼だろう。
この絵馬舎の中では比較的保存状態の良い押絵額。「明治三十四辛丑年五月吉辰」。「松本美重子門人……」とあるので、これも他の押絵のいくつかと同じように押絵の師匠と弟子が関わって作られたことがわかる。
青い素襖の右袖に菊水のような模様が見えるので楠木正成か。
牛の絵馬。
押絵額。右上の扇の中に題があり「嵐山遊覧」と読める。縁の右辺に微かに「明治」とある。豊原国周の慶応元(1865)年の浮世絵に「京都嵐山遊覧」という題でこれに近いポーズで人物が描かれている作例があり、参考にしたと思われる。
参考 Ukiyo-e Search:https://ukiyo-e.org/image/mfa/sc170254
押絵額の裏にも扇型の絵馬が。
・まとめ
絵馬舎を夢中でみているうち、日が昇って明るくなってきた。近所にお住まいらしいお年寄りが何人かやってきて、参拝しては神門の前に腰かけて雑談している様を見た。
押絵額や船絵馬、武者絵馬、大工の絵馬、日露戦争や昭和大礼に関わる奉納額など、様々な種類の絵馬や奉納額から、この摩氣神社とそれを取り巻く集落の歴史を垣間見ることができた。