(仁王門)
杉並区。新高円寺駅から10分くらい歩くと住宅街の中に意外なほど大きい寺院がある。堀ノ内妙法寺である。
元は真言宗の尼寺だったが、元和(1615~1623)年間に日蓮宗に改宗。元禄十二(1669)年に身延山久遠寺の直末(じきまつ、本末制度においての本山から直接支配をうける)となった。その際お寺にお迎えした厄除け日蓮大聖人の像が信仰を集めいまに至っている。妙法寺が厄除け祖師といわれる所以だ。
(堀之内妙法寺の諸堂・文化財:http://www.yakuyoke.or.jp/cultural_property/)
(祖師堂。厄除け祖師像を祀る。)
(彫刻も立派。「波の伊八」という房総で活躍した宮彫り師一族の手によるという。)
(鉄門。重要文化財で、ジョサイア・コンドルの設計による和洋折衷の門。明治十一(1878)年の作。)
(童子が載っている。)
(二十三夜堂。月を神格化した二十三夜様(二十三夜尊大月天王)を祀る。)
このほかにも諸堂あるが、たくさんなので割愛。
これが額堂。祖師堂むかって左手にある。建築は文化十一(1814)年という。都内に残っている絵馬堂や額堂の類の中では最も古いかもしれない。
ここの特徴は何といっても2メートル級の大絵馬が贅沢に5枚も架かっていること。全部であわせて14枚の絵馬と扁額を見ることができる。
このほかにも妙法寺には北斎の弟子である魚屋北渓(安永九(1780)~嘉永三(1850))の手による大絵馬「板絵着色老翁奇瑞の図」も所蔵されている(額堂には架かっていない)。北斎は熱心な法華の信者で、ここ妙法寺にもたびたび参拝していたらしい。(参考:http://www.city.suginami.tokyo.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/031/586/71.pdf)
画題としてはやはり熱心な法華の信者だった加藤清正、日蓮聖人の法難や奇跡を描いた絵馬が多い。
とにかく絵馬がでかい。壮観。ベンチがあって参拝者の憩いの場になっているのもよい。散歩の途中に立ち寄ったと思しきお年寄りがちらほらいた。
画面右には赤い袈裟を身にまとった僧が、左には数珠を手に法力を発揮している修験者と、鉞を持ち唖然といった様子で見上げる従者が描かれている。二者の中心には岩が立体的に形作られている。
これはおそらく日蓮上人と真言宗の高僧が法力で勝負をしている場面を描いた図。この岩を「法論石」といい、山梨県南巨摩郡富士川町小室の妙石山懸腰寺に今も現存する。
(参考:http://design-archive.pref.yamanashi.jp/oldtale/2398.html)
絵師は、右下の落款「雪山堤等琳」と法印「雪山」から三代目堤等琳(生没年不詳、天保頃)。等琳の絵馬は他にも浅草寺などにある。
(参考:https://kotobank.jp/word/%E5%A0%A4%E7%AD%89%E7%90%B3%283%E4%BB%A3%29-1092412)
素材は張り子だろうか。
板に龍が二匹。「融川法眼寛信門人」「文政六年癸未九月 願主 町田氏融女寛好謹画(方印)」とある。融川法眼寛信は、浜町狩野五世・狩野融川(安永七(1778)~文化十二(1815))のこと。絵に老中が不満をしめしたことに怒り、下城途中に切腹したという人物。この絵を描いたのはその弟子で町田融女という絵師らしい。検索してもほとんど情報が出てこない。池上本門寺表参道の石段坂「此経難持坂」上の向かって右広場には町田融女が狩野融川の恩に感謝する石碑があるらしい。また、澤田ふじ子の小説「絵師の首」はこの町田融女について書いているそうなので、今度読んでみようと思う。
(参考:https://kotobank.jp/word/%E7%8B%A9%E9%87%8E%E8%9E%8D%E5%B7%9D-15753/
http://www.photo-make.jp/hm_2/kanou_yujyo.html)
千社札がリズミカルに貼られていて面白い。描かれているのは烏帽子型の兜や胴の蛇の目紋からして加藤清正だとわかる。
落款は「旭雄齋橘嵩膮満喜謹圖之(円印)」、 左側には「寛政五癸丑歳十月十有二日 願主 原粂◯ 更山(花押)」とある。寛政五年は1793年。「武江扁額集」という本にこの絵馬が載っており、それによれば絵師は橘嵩暁(生没年不詳)。願主は「羊遊斎 原粂次郎」。原羊遊斎(明和六(1769)~弘化二(1846))は江戸時代後期の蒔絵師で酒井抱一が下絵を描いた琳派風の作品で知られているそうだ。
(参考:http://www.ne.jp/asahi/kato/yoshio/aiueo-zenesi/su-zenesi/suugyou-tatibana.html/
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/932194/23/
https://kotobank.jp/word/%E5%8E%9F%E7%BE%8A%E9%81%8A%E6%96%8E-861920)
「嘉永五壬子年十二月」とある。嘉永五年は西暦1852。右下に「一昇冩?」とあり、歌川国福(一昇斎)の絵かもしれない。たくさんの大工たちが巨大なお堂を建てる様が生き生きと描かれていて面白い。妙法寺内の堂宇の建立と関わる絵馬だろうか。
加藤清正が堂々と坐っている姿が描かれている。筆のようなタッチだが立体的だ。
落款は「明治四年辛未冬十月 鮮齋永濯拜圖」。西暦でいうと1871年、小林永濯(天保十四(1843)~明治二十三(1890))の作。近くにいたお年寄りいわく、以前この絵馬が展覧会に出品されたときは重くて大変だったという。「揺らぐ近代 日本画と洋画のはざまに」(東京国立近代美術館、京都国立近代美術館、2006年度)という展覧会に出品記録がある(http://www.momak.go.jp/Japanese/exhibitionArchive/2006/351table.html)。
奉納は昭和五十六年。日蓮上人と龍を形作ったのだろう。
「卓越大臣賞勲六等単光旭日賞 手塚忠四郎作」とある。͡͡手塚忠四郎(明治四十(1907)年~平成元(1989)年)は、日本画家の結城素明に師事したいわゆる鏝絵(漆喰彫刻)の職人のようだ。
(参考:http://tezuka-sangyo.com/works.html)
左には「後五百歳中 廣宣流布 佐倉城主紀朝臣正時謹書(方印) 右は「一天四海皆帰妙法 文化六己巳年夏五月良辰 佐倉城主紀朝臣正時敬書」とある。文化六年は西暦1809年。
堀田正時(宝暦十一(1761)~文化八(1811))は下総佐倉藩第三代藩主。
(参考:https://blogs.yahoo.co.jp/kayosan083/14813918.html)
立派なかまど。後ろに回るとガスが中に仕込まれているようなので、現役かも。
白い象に乗った遊女の図。観阿弥の謡曲「江口」に出てくる普賢菩薩の化身だろう。落款は見当たらず。細面の美人画はいかにも浮世絵師が描きそうな感じ。
日蓮上人と龍を描いている。七面大明神(七面天女)という日蓮宗の守護神は美女の姿で説法を聞いていたが龍の姿に変じたというから、何か関係があるかもしれない。右下に落款があるが読めず。
「陳楠救民之旱魃入山狩龍出水〇内〇圖」「弘化四年丁未春日 大岡雲峰画 㫭歳八十三」とある。大岡雲峰(明和二(1765)年~嘉永元(1848)年)は旗本出身の画家。高芙蓉や谷文晁に師事、弟子に歌川広重がいる。弘化四は1847年なので、最晩年の作となる。
画題の陳楠は干ばつに困っていたところ龍を連れてきて雨を降らせたという仙人。
(参考:https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E5%B2%A1%E9%9B%B2%E5%B3%B0-1059772/
http://www.syo-kazari.net/sosyoku/jinbutsu/chinnan/chinnan1.html)
女性の武人。右に「京橋銀座壹?町目 常磐津會?」とある。巴御前か板額御前かわからないが・・・。落款らしき跡が左下にあるが読めず。
人物の描き方など北斎風に見える。右下の人物の大仰なしぐさが間抜けで笑える。左下に年記落款その他あるが達筆で読めず。「明治〇〇年〇〇」「北◯◯・・・」。北斎の弟子筋だろうか。
私の力量では、絵馬に描かれている内容をすべて特定することはできなかった。落語などの催し物もあるようなので、また訪れてのんびりと絵馬を眺めてたい。
◯日蓮宗本山 堀之内妙法寺・・・東京都杉並区堀ノ内3-48-8