絵馬ブログ

絵馬、絵馬堂についてのブログ。ほぼ月一回更新。/筆者:佐藤拓実/訪れた絵馬スポットの数:54(番外編:6)/ツイッター @EMA_blog_

海渡山阿吽寺の絵馬

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(阿吽寺の山門)

 

・阿吽寺の概要

 

 松前は北海道の中でも特別な町だ。北限と言われる孟宗竹林があり、復元ではあるが天守閣があり、かつてその地を治めていた大名がいた。海渡山阿吽寺はその松前城下の寺町にある北海道有数の古刹である。由緒を紐解けばかつての東北・北海道南部の群雄割拠の時代に触れることが出来る。

 

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(境内入口の看板)

 

 鎌倉時代以降、津軽地方や蝦夷地を北条氏の代官として支配する蝦夷管領(資料では蝦夷沙汰または東夷成敗という)の職を担った津軽安東氏は十三湊を本拠地として栄えた。その安東氏の菩提寺が、もともと鎌倉時代末期に津軽相内(現・青森県五所川原市相内)にあった阿吽寺だった。安東氏の祖先は天台宗を信仰していたが北条家が真言宗を登用し敵対する南部氏が天台宗を信仰していたため次第に真言宗に傾倒していったという。

 南北朝時代の安東氏は南部氏と奥羽地方を二分する勢力だったが、永享四(1432)年もしくは嘉吉二(1442)年、十三湊に移って四代目の安東盛季と子の康季は南部義政に攻められ蝦夷地へ逃げ延びたとされる。その際に阿吽寺も蝦夷地の茂辺地(現北斗市)に移り、以降は茂別館の下国氏(安東氏の一族)に奉仕する。後に松前の大館へ移転、永正九(1512)年にアイヌとの戦いで堂宇は焼失したが大永七(1527)年に再興され、16世紀後半以降に蝦夷地を支配していく蠣崎(のちの松前)氏の祈願所となる。元和五(1619)年、松前氏の居城である福山館の完成に伴い鬼門を守るため移転し現在に至る。

 ちなみに十三湊の阿吽寺があった場所は、中世における神仏習合を示す礎石建物跡が極めて良好な状態で保存されている山王坊遺跡(国指定史跡)がそれに当たると言われており、今では山林に囲まれた山王坊日吉神社の境内地になっている。

 阿吽寺は箱館戦争などしばしば火災に遭っている。現在の山門は箱館戦争で焼失した代わりに城の堀上御門を移築したものだ。幸いにも本堂は土蔵になっていて多くの宝物が守られてきた。本尊の不動明王像(北海道指定有形文化財)は十三湊から安東氏に付き従ってきた真言修験者の山王坊が携えてきたと伝わっており、平安時代後期(11世紀~12世紀)の北陸地方の作と考えられている。他に初代松前藩松前慶広像なども所蔵している。
 

(参考)

コトバンク 蝦夷管領

https://kotobank.jp/word/%E8%9D%A6%E5%A4%B7%E7%AE%A1%E9%A0%98-445017

函館市史デジタル版 通説編第1巻 第3編 古代・中世・近世 十三湊   P326

http://archives.c.fun.ac.jp/hakodateshishi/tsuusetsu_01/shishi_03-01/shishi_03-01-02-00-02~03.htm

五所川原市ホームページ ホーム 教育・文化・スポーツ 文化 山王坊遺跡

http://www.city.goshogawara.lg.jp/kyouiku/bunka/sannobo.html

松前町ホームページ まつまえの文化財 文化財一覧 不動明王立像

http://www.town.matsumae.hokkaido.jp/bunkazai/detail/00001828.html

・北海道三十六不動尊霊場会 番外第6番札所 海渡山 阿吽寺

http://36fudou.jp/wp/index.php/bangai/page-386/

 

  

  

・阿吽寺の境内

 

 2016年頃はじめて阿吽寺を訪れた時のことは忘れられない。私が絵馬に興味を持つきっかけになった場所だからだ。松前のそう広くはない寺町の一角にある阿吽寺の境内や建物は、失礼ながら他の寺院に比べてもあまり立派ではない。もし私がこの寺が辿ってきた歴史について少しでも知らなければ立ち寄ることもなかっただろう。「本当にここが北海道有数の古刹なのだろうか?」いぶかしく思いながら戸を開けると壁には鮮やかな船絵馬が並び長押には数々の書や絵馬、奉納額が並んでいた。阿吽寺の山号は海渡山である。当時の私は群雄割拠の時代も北前船海運の隆盛も知らなかったけれど、いつの頃か安東氏や郎党たちが津軽海峡を渡ってここへ来たはずだということ、港から港へ海を渡り船の上で生計を立てるような人々にとって、この海を渡った寺院の存在がどれだけの支えになってきたかということは容易に想像でき、その想いの現われとして数多の船絵馬や奉納額がここに飾られているのもすぐに理解できた。以来、自分で絵を描いていたこともあって寺社を訪れる機会があれば特に絵馬を気にするようになった。

 以下の写真は2016年と2019年に許可をとって撮影したものだ。

 

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 山門には松前家の家紋(武田菱)がついている。

 

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 煤だろうか、黒さが目につく山門は松前城福山城)の堀上御門だった。

  

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 手水鉢。「奉納 海渡山」「文化七庚午年 栖原 船頭中」文化七年は西暦1810年

 

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 いくつか石碑もある。

 

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 屋根の上には不動明王の剣が。

 

 

・阿吽寺の奉納物

 

 扉を開けて中へ入り、全体をぐるりと見渡す。

 

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 右の壁面から順に奉納物を見ていく。

 

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 源頼政と猪早太の鵺退治の絵馬。落款は「月岡栄山」か?二世堤等琳の門弟らしい。

 

(参考)梅本鐘太郎 (塵山) 編『浮世絵備考』(東陽堂、明31.6、87頁)

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/850008/62



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 恵比寿・大黒の彫刻。素材までは分からなかった。

 

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 鳥と虎の絵馬。

 

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 「大漁」「明王」という字や鳥居が銭で形作られている。不動明王の剣もたくさん奉納されている。

 

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 一見同じように見える船絵馬だが見比べると帆の形や背景が微妙に異なっていて規格化されつつも注文内容に合わせて細部を変えていたことがわかる。

 

 
 ここからは扉の上の長押の奉納物を見ていく。
 

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向かって左側の壁面を見ていく。

 

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 雅楽の迦陵頻か。

 

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 こちらの壁にも船絵馬がたくさんある。

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 「大聖不動明王」「竹本成太夫」。

 

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 他のと比べるとやや大きな船絵馬。船の幟には「明王丸」「愛染丸」とある。左下には奉納者の名前。「栖原小右衛門 手船 沖船頭 新藏」。栖原小右衛門は宗谷枝幸で漁場14か所を経営し、衰退する福山港の再興を目指して明治六(1873)年に福山波止場の建設に私費を投じた松前の豪商のようだ。沖船頭とは北前船の運航や商品の売買、乗組員の統率などその船を取り仕切る船頭のうち船主に雇われている者のことを指す。

 右端の真ん中には「繪○○」という文字が見える。おそらく、船絵馬や武者絵馬などを描いた大阪北堀江黒金橋北詰の絵馬藤(岩城ゑんま藤)の落款だろう。

 船の名が「明王丸」なのは、やはり阿吽寺の本尊から名付けたのだろうか。

 

(参考)

佐々木恵一、原口征人、石川成昭、今尚之「松前・福山波止場の保存活用にむけた 基礎的研究」土木史研究講演集vol.36、2016

http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00902/2016/36-0079.pdf

日本財団図書館『船の科学館叢書4 船絵馬入門』石井謙治・安達裕之 五 第五期(明治時代~大正時代)の船絵馬と船絵師 

https://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2003/00932/contents/0012.htm

 

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 欧米人らしき老人の肖像画。文字は見えない。鉛筆画か石版画のように見える。帽子はギリシャ正教会の司祭が被るカミラフカに似ている。

 

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 押絵の額。


 

・そのほかの奉納物

 

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 剥落が激しい恵比寿大黒の図。

 

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 船絵馬もまだまだたくさんある。

 

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 神社の境内図。

 

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 役者絵のガラス絵。

 

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 大黒天のガラス絵。

 

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 松前城下の写真や絵図も。

 

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 水の中に入った騎馬武者。明智秀満明智左馬之助光春)か?

 

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 松前道廣の書「辯才天」。道廣(宝暦四〜天保三、1754〜1832)は松前藩八代藩主。ちなみに弟であり家老を務めたのは南蘋派や円山四条派を学び絵師としても名高い蠣崎波響(明和元〜文政九、1764〜1826)。

 

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 「源崇廣」「不動明王」。松前藩十三代藩主で老中も務めた松前崇廣(1829〜1866、文政十二〜慶応二)の書だろう。

 

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不動明王」と書かれた斎藤實(安政五~昭和十一、1858~1936)の書。斎藤は仙台藩領水沢(現岩手県奥州市水沢)出身の海軍大将で海軍大臣朝鮮総督内閣総理大臣などを歴任し二・二六事件で殺害された人物だ。「昭和辛未」は西暦1931(昭和六)年であり仲秋は旧暦8月、現行暦では白露~寒露(9月8日~10月7日ごろ)までを指すので、6月に斎藤が朝鮮総督を辞任してから翌1932(昭和七)年5月15日に犬養毅首相が海軍若手将校らにより暗殺されたいわゆる五・一五事件を受けて、第30代内閣総理大臣に就任する間の期間にあたる。記念館ウェブサイトによれば斎藤は揮毫をよくしていたらしい。

 ちなみに斎藤の北海道との関わりは、音更町で海軍軍人仁禮景範の農場を仁禮の娘婿にあたる斎藤が1918(大正七)年に購入、経営していたことが挙げられる。この仁禮農場(のち音幌農場)ではまさに昭和六年に小作争議が農場の全面開放という形で決着し、ブローカーなどの手を経て土地が売りに出されていたようだから斎藤も北海道を訪れる機会があったのかもしれない。

 

(参考)

・レファレンス事例詳細

https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000301151

・斎藤實記念館 斎藤實ってどんな人?

http://www.city.oshu.iwate.jp/htm/soshiki/syakai/kousui/top.html

・浜野潔「勲功華族の農場経営とその継承:海軍中将・仁禮景範の家族史」(『史学』第81巻第1・2号、三田史学会、2012、315-330頁)

https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00100104-20120300-0315

 

 

 

・まとめ

 阿吽寺で私が出会った絵馬や奉納物はその後蝦夷地や北海道・東北地方の文化や歴史に目を向け、造形物と信仰の関係について考えるきっかけになった。忘れ難い場所だ。老人の肖像画の詳細など分からないことがまだまだある。また何度でも訪れて、海を渡ってきた人々の歴史を想いながら奉納物を眺めたい。

 

 


○海渡山阿吽寺・・・北海道松前郡松前町松城371

 

 

摩氣神社の絵馬舎

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(苔の生えた屋根が印象的な摩氣神社の拝殿)
 

 

 

・摩氣神社までの道のり

 

 京都府南丹市の摩氣神社(まけじんじゃ)の絵馬舎に行った。

 

 

 朝早く起き5時30分頃の電車でJR京都駅を出発。夜が明ける前の暗い車窓を眺めながら朝食に軽くパンを食べた。JR嵯峨野線園部駅で下車したのは6時15分頃。駅前に建っている大きな鉄塔が妙に印象に残る。

 

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 駅前には謎の石像が。

 

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 案内板を見ると園部駅周囲にいくつか大学があるのがわかる。

 

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 京阪京都交通バス園篠線に乗車。「摩気神社前」で降りて辺りを見渡す。だんだん夜が明けてきた。バス停のすぐ近くの道の右側に大きな台座に載った石灯籠があり、その左奥の道沿い、朝日を受けて光る田んぼの脇に柵に囲まれて「式内 名神大社 摩氣神社」と彫られた石が建っていて、神社への道の目印になっている。

 

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 さらに立派な民家の間を抜けて進むと園部川にさしかかる。擬宝珠が載った木製の欄干を持つ小さな橋(摩気橋)が架かっていた。ここちよく水が流れる音を聴きながら橋を渡り交差点にさしかかるとすぐ右側に自然石をそのまま積んだという風情の灯篭が現れた。ここを直進してしばらく歩くと摩氣神社の鳥居が見えてくる。

 

 

 

・鳥居

 

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 朝の冷たい澄んだ空気の中で見る鳥居には威厳が感じられ背筋が伸びるような気がした。やや細いしめ縄が掛けられ経年変化で黒ずんだ石でくみ上げられている。見上げると青銅製らしき扁額が掲げられていた。彫刻された文字は「式内 摩氣神社 正四位小出英尚書」。小出英尚(こいでふさなお、1849(嘉永二)~1905(明治三十八))は丹波園部藩小出家十代目にして最後の藩主。鳥居自体は1672(寛文十二)年、小出吉久の建立(境内の南丹市教育委員会設置の看板より)。鳥居の右には「延(?)喜式内 摩氣大社」と彫られた石柱と、風化して読めなくなった由緒書が、左には年季の入った火の用心の看板が立つ。参道の先に目をやると大きな神門が見えた。

 

 

 

・神門

 

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 神門は山間の集落の神社にしては大きく、軒下の木組みや彫刻もかなり立派に感じる。1808(文化五)年の建築(境内の南丹市教育委員会設置の看板より)。門をくぐり抜けると裏側に油絵が飾ってあった。いくつか由緒を書いたらしい看板も掛けられているが風化して字が読みにくい。傍には腰掛けが置いてあった。

 

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 山門を抜けると右手には社務所、左手には手水舎や絵馬舎があり、正面には拝殿、左右には小さないくつかの境内社が立ち並び奥に覆屋のある本殿が建っている。絵馬舎は後でゆっくり見ることにしてまず拝殿を経て本殿へお参りする。

 

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(手水舎)

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(左が絵馬舎、右が拝殿、奥が本殿の覆屋)

 

 

 

・拝殿

 

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 黄みかかった緑の苔が屋根に生えた拝殿。早朝、ぜいたくに静けさの中で建物を独り占めして眺める。風格があるが昭和初期の建築らしい(境内の南丹市教育委員会設置の看板、絵馬舎の項目より)。

 周囲には境内社が並んでいる。

 

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・本殿

 

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 本殿と左右の摂社に参拝する。覆屋にも拝殿と同じように黄緑色の苔が生えている。

 本殿と摂社は明和四(1767)年の建築。本殿は建築様式を「一間社流造」といい、この形式としては京都府下では最大のもので、摂社は例の少ない切妻造だという(境内の南丹市教育委員会設置の看板より)。境内の奥にはなだらかに山へ斜面が続いていた。美しいひさしの木材の並びや立派な彫刻を眺めていると神職さんがやってきてご飯を供えていった。境内にはかまどもあった。

 

 

 

・摩氣神社の概要

 

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 摩氣(まけ)神社が所在する園部盆地は京都府南部地域の北端、「南丹」や「口丹(くちたん)」とよばれる地域の北西端に位置する。その園部盆地の最西端、かつてあった寺院の名前から付けられた胎金寺山(たいこんじやま)の北にこの神社は鎮座している。祭神は大御饌津彦命(おおみけつひこのみこと)。

 創建は古く平安時代に編纂された『延喜式神名帳に記載されたいわゆる式内社で「船井郡の明神大社」と記されている。摩気郷十一ヶ村の総社として崇敬を集め、承暦三(1079)年には白河天皇行幸の折、「船井第一摩気神社」の勅額を賜った。

 江戸時代には園部藩主小出氏の崇敬を受け祈願所になった。元禄年間(17世紀末)には本殿の修理を始め覆屋や拝殿、楼門、石鳥居等の再建や建立といった社頭整備が藩費によって行われた。その後 宝暦十一(1761)年に火災で社殿を含む境内一円がほぼ全焼し古記録や宝物類も失われたが、明和四(1767)年に当時の園部藩主・小出英持(こいでふさよし、1706(宝永三)~1767(明和四))の援助や氏子の寄進により本殿や東西に並ぶ二つの摂社が再建され、これがいま現存している。1984(昭和五十九)年4月14日、本殿、東西の摂社が京都府指定文化財に、絵馬舎、神門、鳥居が京都府登録文化財になった。

 拝殿の茅葺きの覆屋は趣があるが、日が当たりにくい北を向いており屋根には苔が生えやすく雨漏り等の問題も生じていたため、2021年3月に11年ぶりにふき替えられた(私が参拝したのはふき替えの直前だった)。

 

・参考 京都府 平成24年文化財修理(摩氣神社)

http://www.pref.kyoto.jp/furusatokifu/1355203876827.html

京都新聞拝殿のかやぶき屋根、11年ぶり「ふき替え」 京都・摩気神社(2021年4月8日 7:00)

https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/542622

 

 

 

・摩氣神社の絵馬舎

 

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 ここから絵馬舎を見ていく。

 入母屋造り鉄板葺きの絵馬舎は本殿と同じく明和四(1767)年、小出英持による建築。絵馬舎はもともと拝殿として使われており昭和初期に拝殿の新築に伴い移築され再利用された。もとは茅葺きで妻を正面に向けて建てられていた(境内の南丹市教育委員会設置の看板より)。ちょうど神職の方がいらしたので伺ったところによると、以前は拝殿で信者の方をお祓いしたりしたという。

 本殿は北に面して建っていて参道は当然南北に伸びている。絵馬舎は本殿からみると北東に位置し参道を正面とすれば西向きとなる。

 絵馬舎の天井は2本の横木で区切られ3つの区画の内側に向けて四方から絵馬が掛かっている。

 絵馬舎は江戸時代中期の建築だがそこに掛かる絵馬は江戸中期はもちろん最近のものまで様々だ。

 

 

・参道側の区画の絵馬

 

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 参道側から見て手前に掛かる絵馬を正面から時計回りに見ていく。

 

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 太鼓を叩いたり踊ったりしている女性たちが描かれている。盆踊りの様子を描いたものだろうか。柱が背後にあるのでどこか建物の屋根の下にいることが分かる。拝殿だろうか。画材は日本画のそれかもしれない。平成十三(西暦2001)年五月奉納の比較的新しい絵馬。

 

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 鞍に御幣を立てた神馬の絵馬。これも平成十三年五月奉納で「創祀壱千弐百年奉祝祭」とある。先の絵馬も一緒に創祀1200年を記念して奉納されたのだろうか。

 

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 写真も奉納されている。

 

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 絵馬の裏には扇形の奉納物(これも絵馬と言っていいのだろうか?)が、たくさんある。すっかり退色しているが筆跡が残っていて読めそうだ。どれも上に文字が書かれ下に羽織姿の男が描かれている。
 

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 扁額「精華」。「為明治三十七八年戦役従軍記念」「竹井區」「軍人中再?拝」とあるので、日露戦争後に地元の在郷軍人会によって奉納されたのだろう。蝉の抜け殻がくっついていた。

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 縄が付いた奉納額。縄の上、「奉」と「納」の字の間に四角い部材がある。ここにかつては何か付いていたのかもしれない。縁には「昭和三年十一月吉日」「大禮使御用」「帝國在郷軍人會摩氣村分會」とあり、昭和天皇即位式京都御所で執り行われた際に儀式のどこかで使用されたのち下賜された縄だろうか。

 

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 神社への寄進者の名札がずらっと並ぶ上に二人の従者が馬を牽く絵馬。「昭和〇〇年」「五月吉辰」、絵の周辺には「社司? 正延謹冩」「宮講者」「周旋人」とあり奉納に関わった人々の名前が書かれている。

 

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 扇形の奉納物。上の人物の羽織が白い。他は線描の跡が見て取れるだけだが彩色されていた箇所もあったのかもしれない。

 

 

 

・中間の区画の絵馬

 

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 前に説明した通り、絵馬舎の天井は2本の横木で区切られ3区画の内側に向けて四方から絵馬が掛かっている。次に参道側から見て二番目、中間の区画に掛かる絵馬を時計回りに見ていく。

 

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 折烏帽子を被り手に檜扇を持ち太刀を差す人物の押絵の額。「明治三十四年五月吉辰」左右をよく見ると縁に奉納者の名前がたくさん書き込まれている。

 

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 「戦没勲功者名録」「奉勅 明治三十七八年従軍記章條個?依 陸軍大臣奏請ヲ経テ明治三十九年三月三十日勅定従軍記章授與ス 明治三十九年四月一日」・・・「奉懸 明治四十四年十月吉日一同」とあり、日露戦争に従軍した兵士の従軍記章が授与された記念の奉納額と分かる。

 

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 押絵の花かご。「明治四十一?年十月?」。

 

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 花かごの押絵額のすぐ横、武者の絵馬の裏にも扇形の奉納物が。

 

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 騎馬武者の絵馬。

 

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 武者の絵馬の右側からも扇形の奉納物がたくさん除いている。 

 

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 大工さんたちが手斧やらカンナを使っている様が描かれた絵馬。摩氣神社の建築に関わる絵馬だろうか。

 

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 傷みが激しい絵馬。「奉納」の字は金色にも見える。右の方に微かにある字は「鶴山?」と読める。中央の絵は何が描かれているのか全くわからない。このシルエットは……?

 

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 牛が描かれた絵馬。右の方に絵師らしき墨書と落款が二つ。

 

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 水に浸かる騎馬武者の絵馬。右手で鞭を振り上げている。

 

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 軍人の拝み絵馬。

 

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 恵比寿大黒の絵馬。今でも鮮やかだが奉納された当初はもっと鮮やかだっただろう。「明和九歳辰二月」とあるので西暦で言えば1772年、約250年前の絵馬。江戸では明和の大火が起きていた頃だ。

 

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 恵比寿大黒の絵馬の裏にもたくさんの扇形絵馬が。

 

 

 

・奥の区画の絵馬

 

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 ここからは、3区画のうち参道側から見て三番目、最も奥の区画に掛かる絵馬を時計回りに見ていく。

 

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 押絵額。たくさんの女性が形作られている。「明治二十三年庚寅年四月吉日」。「教員 小畠ぎん」「生員……」とあるので何らかの師弟関係のもとで作られたことがわかる。右上の画題らしき短冊には「養蠶皇國榮」とある。調べると明治十一(1878)年に発行された梅堂国政の浮世絵で同じ題の作品があり、皇居で行われている宮中養蚕の様子を美人画として置き換えて描いている。見比べると花瓶や庭、養蚕の道具などモチーフも共通するのでそれを参考にしたものだろう。

 

・参考:東京大学経済学図書館twitter

https://twitter.com/UTokyoEconLib/status/1166141073795629056?s=20&t=FN-5MgybZz5x6dFo04XPaQ

 

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 船絵馬。帆掛け船が手前に2艘、奥に8艘。他の絵馬に比べて金具が立派だ。摩気神社のような山間の神社に船絵馬が奉納されるのにはどのような経緯があったのだろうか。

 

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 傷みが激しい奉納額。押絵が入っていたのだろうか?布と何かの枝が残る。「明治四十一年四月」、「上田俊 門弟……」とある。

 

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  この絵馬も傷みが激しい。後ろの扇形奉納物が見えてしまっている。槍や太刀、すね当てのようなものが描かれているのが分かる。

 

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 「明治廿三年七月吉(日)」とある絵馬。

 

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 この絵馬も傷みが激しい。「明治廿九?年一月吉日」とある。松の下に箒を持った翁らしき姿がみえるので、その左にいるのは媼だろう。

 

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 この絵馬舎の中では比較的保存状態の良い押絵額。「明治三十四辛丑年五月吉辰」。「松本美重子門人……」とあるので、これも他の押絵のいくつかと同じように押絵の師匠と弟子が関わって作られたことがわかる。

 

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 青い素襖の右袖に菊水のような模様が見えるので楠木正成か。

 

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 牛の絵馬。

 

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 押絵額。右上の扇の中に題があり「嵐山遊覧」と読める。縁の右辺に微かに「明治」とある。豊原国周の慶応元(1865)年の浮世絵に「京都嵐山遊覧」という題でこれに近いポーズで人物が描かれている作例があり、参考にしたと思われる。

 

参考 Ukiyo-e Search:https://ukiyo-e.org/image/mfa/sc170254

 

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 押絵額の裏にも扇型の絵馬が。

 

 

 

・まとめ

 

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 絵馬舎を夢中でみているうち、日が昇って明るくなってきた。近所にお住まいらしいお年寄りが何人かやってきて、参拝しては神門の前に腰かけて雑談している様を見た。 

 押絵額や船絵馬、武者絵馬、大工の絵馬、日露戦争や昭和大礼に関わる奉納額など、様々な種類の絵馬や奉納額から、この摩氣神社とそれを取り巻く集落の歴史を垣間見ることができた。

 

 
 
〇摩氣神社・・・京都府南丹市園部町竹井宮ノ谷