(阿吽寺の山門)
・阿吽寺の概要
松前は北海道の中でも特別な町だ。北限と言われる孟宗竹林があり、復元ではあるが天守閣があり、かつてその地を治めていた大名がいた。海渡山阿吽寺はその松前城下の寺町にある北海道有数の古刹である。由緒を紐解けばかつての東北・北海道南部の群雄割拠の時代に触れることが出来る。
(境内入口の看板)
鎌倉時代以降、津軽地方や蝦夷地を北条氏の代官として支配する蝦夷管領(資料では蝦夷沙汰または東夷成敗という)の職を担った津軽安東氏は十三湊を本拠地として栄えた。その安東氏の菩提寺が、もともと鎌倉時代末期に津軽相内(現・青森県五所川原市相内)にあった阿吽寺だった。安東氏の祖先は天台宗を信仰していたが北条家が真言宗を登用し敵対する南部氏が天台宗を信仰していたため次第に真言宗に傾倒していったという。
南北朝時代の安東氏は南部氏と奥羽地方を二分する勢力だったが、永享四(1432)年もしくは嘉吉二(1442)年、十三湊に移って四代目の安東盛季と子の康季は南部義政に攻められ蝦夷地へ逃げ延びたとされる。その際に阿吽寺も蝦夷地の茂辺地(現北斗市)に移り、以降は茂別館の下国氏(安東氏の一族)に奉仕する。後に松前の大館へ移転、永正九(1512)年にアイヌとの戦いで堂宇は焼失したが大永七(1527)年に再興され、16世紀後半以降に蝦夷地を支配していく蠣崎(のちの松前)氏の祈願所となる。元和五(1619)年、松前氏の居城である福山館の完成に伴い鬼門を守るため移転し現在に至る。
ちなみに十三湊の阿吽寺があった場所は、中世における神仏習合を示す礎石建物跡が極めて良好な状態で保存されている山王坊遺跡(国指定史跡)がそれに当たると言われており、今では山林に囲まれた山王坊日吉神社の境内地になっている。
阿吽寺は箱館戦争などしばしば火災に遭っている。現在の山門は箱館戦争で焼失した代わりに城の堀上御門を移築したものだ。幸いにも本堂は土蔵になっていて多くの宝物が守られてきた。本尊の不動明王像(北海道指定有形文化財)は十三湊から安東氏に付き従ってきた真言修験者の山王坊が携えてきたと伝わっており、平安時代後期(11世紀~12世紀)の北陸地方の作と考えられている。他に初代松前藩主松前慶広像なども所蔵している。
(参考)
https://kotobank.jp/word/%E8%9D%A6%E5%A4%B7%E7%AE%A1%E9%A0%98-445017
・函館市史デジタル版 通説編第1巻 第3編 古代・中世・近世 十三湊 P326
http://archives.c.fun.ac.jp/hakodateshishi/tsuusetsu_01/shishi_03-01/shishi_03-01-02-00-02~03.htm
・五所川原市ホームページ ホーム 教育・文化・スポーツ 文化 山王坊遺跡
http://www.city.goshogawara.lg.jp/kyouiku/bunka/sannobo.html
・松前町ホームページ まつまえの文化財 文化財一覧 不動明王立像
http://www.town.matsumae.hokkaido.jp/bunkazai/detail/00001828.html
http://36fudou.jp/wp/index.php/bangai/page-386/
・阿吽寺の境内
2016年頃はじめて阿吽寺を訪れた時のことは忘れられない。私が絵馬に興味を持つきっかけになった場所だからだ。松前のそう広くはない寺町の一角にある阿吽寺の境内や建物は、失礼ながら他の寺院に比べてもあまり立派ではない。もし私がこの寺が辿ってきた歴史について少しでも知らなければ立ち寄ることもなかっただろう。「本当にここが北海道有数の古刹なのだろうか?」いぶかしく思いながら戸を開けると壁には鮮やかな船絵馬が並び長押には数々の書や絵馬、奉納額が並んでいた。阿吽寺の山号は海渡山である。当時の私は群雄割拠の時代も北前船海運の隆盛も知らなかったけれど、いつの頃か安東氏や郎党たちが津軽海峡を渡ってここへ来たはずだということ、港から港へ海を渡り船の上で生計を立てるような人々にとって、この海を渡った寺院の存在がどれだけの支えになってきたかということは容易に想像でき、その想いの現われとして数多の船絵馬や奉納額がここに飾られているのもすぐに理解できた。以来、自分で絵を描いていたこともあって寺社を訪れる機会があれば特に絵馬を気にするようになった。
以下の写真は2016年と2019年に許可をとって撮影したものだ。
山門には松前家の家紋(武田菱)がついている。
煤だろうか、黒さが目につく山門は松前城(福山城)の堀上御門だった。
手水鉢。「奉納 海渡山」「文化七庚午年 栖原 船頭中」文化七年は西暦1810年。
いくつか石碑もある。
屋根の上には不動明王の剣が。
・阿吽寺の奉納物
扉を開けて中へ入り、全体をぐるりと見渡す。
右の壁面から順に奉納物を見ていく。
源頼政と猪早太の鵺退治の絵馬。落款は「月岡栄山」か?二世堤等琳の門弟らしい。
(参考)梅本鐘太郎 (塵山) 編『浮世絵備考』(東陽堂、明31.6、87頁)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/850008/62
恵比寿・大黒の彫刻。素材までは分からなかった。
鳥と虎の絵馬。
「大漁」「明王」という字や鳥居が銭で形作られている。不動明王の剣もたくさん奉納されている。
一見同じように見える船絵馬だが見比べると帆の形や背景が微妙に異なっていて規格化されつつも注文内容に合わせて細部を変えていたことがわかる。
ここからは扉の上の長押の奉納物を見ていく。
向かって左側の壁面を見ていく。
雅楽の迦陵頻か。
こちらの壁にも船絵馬がたくさんある。
他のと比べるとやや大きな船絵馬。船の幟には「明王丸」「愛染丸」とある。左下には奉納者の名前。「栖原小右衛門 手船 沖船頭 新藏」。栖原小右衛門は宗谷枝幸で漁場14か所を経営し、衰退する福山港の再興を目指して明治六(1873)年に福山波止場の建設に私費を投じた松前の豪商のようだ。沖船頭とは北前船の運航や商品の売買、乗組員の統率などその船を取り仕切る船頭のうち船主に雇われている者のことを指す。
右端の真ん中には「繪○○」という文字が見える。おそらく、船絵馬や武者絵馬などを描いた大阪北堀江黒金橋北詰の絵馬藤(岩城ゑんま藤)の落款だろう。
船の名が「明王丸」なのは、やはり阿吽寺の本尊から名付けたのだろうか。
(参考)
佐々木恵一、原口征人、石川成昭、今尚之「松前・福山波止場の保存活用にむけた 基礎的研究」土木史研究講演集vol.36、2016
http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00902/2016/36-0079.pdf
日本財団図書館『船の科学館叢書4 船絵馬入門』石井謙治・安達裕之 五 第五期(明治時代~大正時代)の船絵馬と船絵師
https://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2003/00932/contents/0012.htm
欧米人らしき老人の肖像画。文字は見えない。鉛筆画か石版画のように見える。帽子はギリシャ正教会の司祭が被るカミラフカに似ている。
押絵の額。
・そのほかの奉納物
剥落が激しい恵比寿大黒の図。
船絵馬もまだまだたくさんある。
神社の境内図。
役者絵のガラス絵。
大黒天のガラス絵。
松前城下の写真や絵図も。
松前道廣の書「辯才天」。道廣(宝暦四〜天保三、1754〜1832)は松前藩八代藩主。ちなみに弟であり家老を務めたのは南蘋派や円山四条派を学び絵師としても名高い蠣崎波響(明和元〜文政九、1764〜1826)。
「源崇廣」「不動明王」。松前藩十三代藩主で老中も務めた松前崇廣(1829〜1866、文政十二〜慶応二)の書だろう。
「不動明王」と書かれた斎藤實(安政五~昭和十一、1858~1936)の書。斎藤は仙台藩領水沢(現岩手県奥州市水沢)出身の海軍大将で海軍大臣、朝鮮総督、内閣総理大臣などを歴任し二・二六事件で殺害された人物だ。「昭和辛未」は西暦1931(昭和六)年であり仲秋は旧暦8月、現行暦では白露~寒露(9月8日~10月7日ごろ)までを指すので、6月に斎藤が朝鮮総督を辞任してから翌1932(昭和七)年5月15日に犬養毅首相が海軍若手将校らにより暗殺されたいわゆる五・一五事件を受けて、第30代内閣総理大臣に就任する間の期間にあたる。記念館ウェブサイトによれば斎藤は揮毫をよくしていたらしい。
ちなみに斎藤の北海道との関わりは、音更町で海軍軍人仁禮景範の農場を仁禮の娘婿にあたる斎藤が1918(大正七)年に購入、経営していたことが挙げられる。この仁禮農場(のち音幌農場)ではまさに昭和六年に小作争議が農場の全面開放という形で決着し、ブローカーなどの手を経て土地が売りに出されていたようだから斎藤も北海道を訪れる機会があったのかもしれない。
(参考)
・レファレンス事例詳細
https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000301151
・斎藤實記念館 斎藤實ってどんな人?
http://www.city.oshu.iwate.jp/htm/soshiki/syakai/kousui/top.html
・浜野潔「勲功華族の農場経営とその継承:海軍中将・仁禮景範の家族史」(『史学』第81巻第1・2号、三田史学会、2012、315-330頁)
https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00100104-20120300-0315
・まとめ
阿吽寺で私が出会った絵馬や奉納物はその後蝦夷地や北海道・東北地方の文化や歴史に目を向け、造形物と信仰の関係について考えるきっかけになった。忘れ難い場所だ。老人の肖像画の詳細など分からないことがまだまだある。また何度でも訪れて、海を渡ってきた人々の歴史を想いながら奉納物を眺めたい。