絵馬ブログ

絵馬、絵馬堂についてのブログ。ほぼ月一回更新。/筆者:佐藤拓実/訪れた絵馬スポットの数:54(番外編:6)/ツイッター @EMA_blog_

氷川神社の額殿

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氷川神社の楼門)

 

 

 

氷川神社の概要

 

 埼玉県さいたま市大宮区にある氷川神社は各地の氷川神社の総本社で武蔵国一宮とされている。祭神は須佐之男命(すさのおのみこと)、稲田姫命(いなだひめのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)。創立は社記によると第五代孝昭天皇の御代三年四月未の日といい、時の権力者から崇敬されてきた。この辺りの地名の「大宮」も氷川神社を「大いなる宮居」と称えたことに由来するらしい。中山道から南北に2km伸びた参道は両側が美しいケヤキ並木となっている。

 まずはその参道から氷川神社へ向かった。

 (参考:武蔵一宮氷川神社ウェブサイト http://musashiichinomiya-hikawa.or.jp/keidai/index.html

 

 

 

・参道と境内の様子

 

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(二の鳥居)

 

  県道2号と参道の交差点に二の鳥居が建っている。散歩している人がたくさんいた。

  

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(三の鳥居)

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 境内の入り口に建つ三の鳥居の手前に案内図があった。額殿は三の鳥居をくぐってすぐ右手、神楽殿の隣に並んで建っているが先に拝殿まで行って引き返してくることにした。

 

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(拝殿)

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(神楽土鈴)

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 訪れたころはちょうど七五三の時期で、たくさん親子連れが参拝していて、菊花展も行われていた。

 

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(ふくろ絵馬掛け) 

 

 「ふくろ絵馬」は、よそでは見たことがない。氷川神社のオリジナルなのだろうか。願い事を書いた絵馬を折りたたみ、袋に入れて絵馬掛けに掛けるもののようで、かわいらしい袋は全部で10色。プライバシーも守られ、ちょっとした発明といえそう。

 

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(大宮のサッカーチーム「大宮アルディージャ」の必勝祈願絵馬)

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・額殿

 

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 額殿の隣には酒樽を飾る棚が。2017(平成二十九)年の「明治天皇御親祭150年大祭」の時に埼玉県内の25の酒蔵から40個酒樽が奉納されたとのことで、普段は飾られているのだろうが、この時は額殿の中に樽が片付けられていた。

 (※参考:武蔵一宮氷川神社 氷川神社についてhttp://musashiichinomiya-hikawa.or.jp/about/index.html

 

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 額殿の柱にある看板には「この額殿は江戸時代後期の建造物です。先の関東大震災東日本大震災には持ち堪えましたが老朽化が進んで居りますので建物保存の為筋交いを入れました」と書かれていた。

 

 

 

 

・額殿外壁の絵馬と奉納額

 

 以下では額殿の正面から、反時計回りに奉納物を見ていく。

 

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 左の奉納額の右側、「半嶺中聞謹書(方印)」とあるのは幕末明治期の医師で書家の中根半嶺(1831~1914)のことらしい。奉納者は「橋本彦吉」。右の奉納額には「大御神楽」「當國比企郡小川町講中」とある。

 

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 正面の絵馬。とても目立つ位置にあるが図像は判然としない。右手前には立膝?の人物がひとり、左手奥に裃のような衣装を身に着け右手に扇を持った人物がひとり。狂言か何かの様子を描いたのだろうか。

 

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 「奉納」「太々御神楽」「大宮菓子業共和組合」「創立十五周年記念」大正十五年の奉納。波と龍を彫刻した額も立派だ。

 
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 向かって右側の壁面を見る。

 

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 昭和五十八年の奉納。「納札氷川連創立三周年記念」。

 

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「奉獻」「大御神楽」。他の文字はほとんど判別できない。

 

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 「神徳」「昭和戊寅元旦」「杭州陣中」「八隅部隊長」「八隅錦三郎謹書」とある。昭和の戊寅は1938(昭和十三)年。

 

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 何も読めない・・・。

 

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 こちらも文字が読めない。刀掛けがあるので何らかの武術に関わる奉納額なのだろう。

 

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 道から見えない背面の壁へ。

 
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 文字が読めないが、こういう横長の額は句額が多い気がする。

 

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 裏手に回ると酒樽がたくさんあるのと筋交いの様子がよくわかる。

 

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 向かって左の壁面を見ていく。木が額殿のすぐそばに生えているので、写真が撮りにくい。

 

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 有名な歌舞伎の演目「勧進帳」の「武蔵坊弁慶」を演じる役者の絵馬。割れ目が痛々しい。ポーズはいわゆる飛び六方だろう。

 「奉献」「佐田建設」「埼玉支店」「商売繫盛」「工事安全」とある。佐田建設群馬県前橋市に本社を置くゼネコン。埼玉支店は大宮区にある。

 絵師は「雲龍」(?)「一雄玉」(?)(方印)とあるが詳細不明。

 絵の左側には「十一世市川團十郎」とある。十一代市川團十郎(1909~1965)が歌舞伎座團十郎を襲名したのは1962(昭和三十七)年4月、54歳の時でこの時59年ぶりに大名跡が復活したが、わずか3年半後に没した。左下には「昭和六十三年五月(?)吉日(?)」「東𡬱(?)支店長(?)竹久雄」「社員一同」とあり(行書?が全然読めない・・・)、十一代市川團十郎が活躍していた頃と奉納年はだいぶズレている。大宮で歌舞伎の公演が行われた記念などに奉納されたのかも・・・と思ったが実際は奉納者の好みで絵柄が選ばれたのかもしれない。それとも私の調べが不十分なだけで大宮は成田屋と深い縁があるのだろうか。

 

(参考:成田屋 十一代市川團十郎 http://www.naritaya.jp/naritaya/tree/11.php

 

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 絵柄が分からない絵馬。左右に巴紋が付いている。画面上に縦線が見えるのは建物の柱か御簾を描いたものだろうか。鎧武者らしき姿も何人か見える。


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 水面から顔を出す龍と豪傑を描いた絵馬。木目がまるで水の流れのように見える。豪傑の背後には木のような剣のようなものがある。右半分が隣の額に隠れて見えない。絵が残っている割に文字が消えかかっているのは書くのに用いた素材が違うのだろう。水滸伝の入雲龍公孫勝を描いたものか。

 

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 微かに文字らしきものが見えるが、ほとんど何もわからない奉納額。

 

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 「奉納」の文字しか読めない奉納額。

 

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 これで額堂の周囲の奉納物は一通り見ることが出来た。以下では額堂の内部をのぞいてみる。
 

 

 

 

・額殿内部の奉納額

 

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 天井にはたくさん千社札が貼られている。この高さ、どうやって貼ったのだろう?

 

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 まず正面の奉納物の裏手の梁にある奉納額を見る。「奉秦(?)大々御〇」1911(明治四十四)年の奉納。下の柱には氷川神社と金字で書かれた札。

 

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 向かって右の壁面、右端の奉納物から見ていく。

 

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 「武蔵一之宮氷川神社」「奉納弓道大会優勝額」が2面。

 

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 氷川神社の扁額が2点。一枚は「奉納」「明治四十貮年六月吉日」「氷川神社」「須田〇喜」、もう一枚は「奉獻」「大願成就」「北足立郡大宮町大門丁」「願主 小嶋寅治郎」「明治三十八年七月吉辰」「霞?亭古?川県象○○」。書家の名前が読めなかった。もっと書の勉強をしなければ・・・。

 

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 写真の入った額。「大宮工場第二回西比利亞派遣鉄道技巧班」「大正十一年六月十三日凱旋記念」とある。鉄道博物館に行けば詳細について何かヒントがあるだろうか。

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 正面の梁に奉納額。「奉祝天皇陛下御在位五十年 大灯篭一対」1976(昭和五十一)年の奉納。

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 向かって左の壁面を見る。

 

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 「奉納」「官幣大社氷川神社」「太々御神楽」「鐵道局大宮工場木工部」「大正十一年四月吉日」「鐵道大臣元田肇謹書」とある。前に見た「西比利亞」(シベリア)へ派遣した鉄道技巧班の凱旋記念写真の2か月前に奉納されている。何か関係があるのだろうか。元田肇(もとだはじめ、1858〜1938)は大分県出身の政治家。衆院議員当選16回、勤続40年余の間に第1次山本権兵衛内閣で逓信相、原敬内閣で初代鉄道相、1928(昭和三)年には衆院議長を務め、政友会の長老として大正・昭和の政界で活躍した。奉納時は原内閣からそのまま留任した高橋内閣(1921.11.13~1922.6.12 、大正十~十一)の鉄道相だった。

 (参考:近代日本人の肖像 元田肇 https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/434.html

 

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 よく見ると、「奉獻」「興〇町?○○」「明治二十九年一月凱旋」「彰○○」「埼玉縣北?足立郡大宮町」「𣘺?本安兵衛?」「従軍藥?〇師 〇?嶋○○郎」「応需○○・・・」と書かれているように見える。

 

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 次に、梁より奥の奉納額を右の壁から見ていく。

 

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 奥の右の壁、上に掲げられた奉納額。

 

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 奥の右の壁、下方の奉納額。たくさん人名がある。

 

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 奥の左の壁。文字の判別できない奉納額が看板が折り重なっている

 

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 小さいが立派な「太々御神樂」の額の隣にもまた立派な算額が。「奉納」「関流皆傳算師都築源右衛門利治門人」「後見 北埼玉郡平手林 関流皆傳 茂木孝匡」「仝 中種足 仝 都築利治」「世話人 堀越利佐 松村利輝 上野福永 谷部治正 敬白」「明治参拾壱年十一月十日」「昭和四十六年十月復元(?)」。

 

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・まとめ

 
 絵馬殿ではなく額殿だけあって、何かの記念に奉納された扁額や「氷川神社」「太神楽」の額が多い印象だった。大宮駅は交通の要衝であり、鉄道関連の奉納額があったこともここならではだろう。人名などを元にもう少し調査すれば大宮の意外な歴史が明らかになるかもしれない。


 
 
  

・おまけ

 

 

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 ついでに参道脇にある氷川だんご屋にも寄って、酒饅頭、揚げ饅頭、だんご、梅茶のセットを食べました。小腹を満たすにはちょうどいいボリュームでした。

  

 

 

氷川神社・・・埼玉県さいたま市大宮区高鼻町1-407

  

  

   

松ヶ崎八幡神社の武術絵馬

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(松ヶ崎八幡神社の鳥居) 

 

 

 

・松ヶ崎八幡神社へ 

 

 

 秋田市の北にある由利本荘市の海辺の集落、松ヶ崎へとバスで向かった。この日は事前にご連絡を差し上げていた宮司さんにご案内いただいき、貴重な建築や絵馬、文化財を見ることができた。

 山の麓の新しそうな石の鳥居をくぐると左手に手水舎があり、林の中をくぐり抜けていくように設置された本殿への苔むした階段を登っていく。

 その先に拝殿、幣殿、本殿覆屋が棟続きになっており、覆屋の中に本殿がある。

 

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(大きな扁額) 

 

 

・松ヶ崎八幡神社の概要と特徴

 

 松ヶ崎八幡神社はどのような成り立ちでここに建っていて、どのような特徴があるのだろうか。少し振り返ってみたい。

 そもそも現在の由利本荘市の北側を江戸時代に治めていた亀田藩岩城家は、元々は現在の福島県浜通り南部いわき市のあたりを支配していたのだが関ヶ原の合戦以後に領地替えされた。そのことで殿様に伴ってこの地に移動してきたのが松ヶ崎八幡神社であり、藩の崇敬社とされ領内七十五社が合祀された総社なので非常に政治的な色合いが強い。社殿が現在の形になったのは藩から地元住民に管理が移った後の1898(明治三十一)年だと推測され、それ以前はもっと大きかったようだ。宮司様は2.5倍くらいあったと言っていた。そのことを示すように絵馬も扁額も今の建物に対しては随分大きい。

 ここでは江戸時代後期、異国船に備えた海防のため亀田藩で武術が奨励されたことで奉納された武術に関する絵馬16面が特徴的だ。「本荘市史神社仏閣調査報告書 本荘の神仏像」(平成10年3月31日発行、編集執筆 大矢邦宣、発行 本荘市史編さん室、以下でも同書に基づいて寸法など記載する)によれば、奉納は天明年間から安政五(1858)年までの江戸後期70年間であり、武術は剣術はもちろん、弓術、槍術、馬術、砲術、居合、捕手、柔術の8種におよび、剣術に並んで砲術に関するものが多いことから流行武術であったことが伺えるという。

 

 

 

・拝殿内の絵馬と奉納物

 

 ここから建物の内部を見る。亀田藩の家紋が入った提灯がともる中に所せましと絵馬が並んで掲げられている。なお、この時に撮影できた以外にも何点か絵馬が所蔵されている。

 
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 亀の甲羅に「郷社八幡神社」の文字。大正十二(1923)年の奉納。秋田県内では他の神社でも時々文字が刻まれ奉納された甲羅を見た。

 以下、時計回りに絵馬などを見ていく。

 

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 「志満異風流」の砲術絵馬。吹き流しが描かれ、大筒と呼ばれる大型の火縄銃を前に武士が座っている。背景は松ヶ崎であろう、風景が描かれている。123.5×193cmある。「志満異風流三代武藤平太正光」その左に「同兵左衛門信久」、その下に「門弟」とあって続いて人物名に並んで「以百目玉拾二丁通之」「以五拾目玉同丁通之」などと書かれているのは、砲弾を飛ばした成績だろうか。文化十三(1816)年八月の奉納。落款は「探正守重筆」。『本荘の神仏像』によれば狩野派の絵師らしい。

 

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 鏝絵(こてえ)で那須与一が形作られている。69×132㎝でそれほど大きくないものの、色鮮やかで立派だ。左上に「勲七等功七位 佐々木市三郎 細工」とある。大正十四(1925)年10月13日奉納。

 

 

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 素朴な地引網の絵馬。紙に水彩?69.5×86㎝。

 

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 素朴な蛇の絵が2つ並んでいた。どのような願をかけたものだろうか。

 

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 これも「志満異風流」の砲術絵馬。111×196㎝。右端に大きく「初代武藤兵左衛門信久」「五代武藤平蔵信道」「六代岩城内記隆亨門人」とある。この岩城内記隆亨という人物は亀田藩主の縁戚の上級武士だろうか。この絵馬の奉納にあたっても中心的役割を果たしたに違いない。続いて「發鉛丸到十二丁之外」「百目玉」などとあって、門人の名前が並ぶ。弘化四(1847)年九月奉納。落款は「洞明浅英筆」。

 右奥の山の影には幔幕が張られ吹き流しが立っている。右手前の山のふもとには鳥居があるがこれはまさに松ヶ崎八幡神社の鳥居ではないだろうか。町を挟んで左の山の斜面に吹き流しと一緒に立てられているのは砲術の演習のための的のように見える。岩城藩士の武術の事情がうかがえる。

 

 

 

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 やや厳しい表情で瓢箪で釣りをする武士と、その目線の先で川面を眺める従者らしき武士が描かれている。172×197㎝、天保九(1838)年の奉納。「林崎流居合」「関口流柔術」とあり、下部には門人の名前が並んでいる。林崎流居合とは林崎重信を祖とする神夢想林崎流のこと。関口流柔術関口氏心を祖とする。落款は「亀陰冩」。先述の『本荘の神仏像』によれば大平亀陰という絵師のことで、井上隆明『秋田書画人伝』(加賀谷書店、1981年)にその名があるらしい。後述の絵馬にも亀陰の作がある。

(参考:https://yuagariart.com/artist-labo/literature/dictionary/akitashogajinden.html) 

 
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 173×182㎝、文政元(1818)年奉納の絵馬。「慈幻流剣術」「関口流柔術」「林嵜流居合」「勝山文左衛門胤安門人」とある。落款は「宗辰斎昌言」。対峙する二人の男から緊張感が漂う。腕に浮き上がった筋に迫力を感じる。もしかしたら武術の指導者たちの肖像でもあるのかもしれない。

 

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 大坪流馬術の絵馬。大坪流室町時代足利義満、義持に仕えた大坪慶秀がはじめた流派。193×241.5㎝。文政十三(1830)年の奉納。「大坪式部大輔慶英十八世」「久下丹治為吉門弟」「松村傳藏英重門人」とあり、落款は「北川齋守善筆」。神社に奉納される絵馬は神馬の奉納に由来するが、このように馬術にまつわる絵馬は珍しいかもしれない。

 

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 先述の『本荘市史神社仏閣調査報告書 本荘の神仏像』によればこれは宝蔵院流槍術の奉納額らしい。十文字槍の創始として有名な宝蔵院胤栄が始めた流派だ。79×165㎝、安政五(1858)年の奉納。中央に「熟則心 能忘手 手能忘 槍圓神 而不滞」とあるのは明時代の武将である戚継光の兵書『紀効新書 短兵篇第十二』からの言葉で、原文は「熟則心能忘手、手能忘槍、円神而不滞、又莫貴於静也(熟すれば則ち心は能く手を忘れ、手は能く槍を忘る。円神して滞らず、又た静を貴ばざるなし)」。

 (参考:屈 国鋒『養生武術の形成過程に関する研究―民間武術から太極拳への変遷を中心に― 』、原文と出典は177頁(註37)、書き下し文は164頁から)

 

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 190.5×193㎝、奉納年は見当たらなかったが『本荘の神仏像』によれば天明頃の奉納とされている。掛けられた木刀4本のしたで二人の男が向かい合って木刀を構えている。「慈玄流剱術元祖本嶽長門守十一世 小川杢右衛門茂武門人 神谷半次春茂門弟」とあり、先述の「志満異風流」の砲術絵馬と同じく落款は「探正守重」。

 

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 111×218.5㎝、天保三(1832)年奉納。「志満異風流砲銃」「武藤兵左衛門信久」「武藤平蔵信道 門弟」とある。落款は「亀陰」。先述の瓢箪で釣りをする武士の絵馬と同じ絵師か。

 

 

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 82.5×111㎝、大正三(1914)年奉納。紙に水彩か日本画で描かれているものか。「大嶌小嶌之沖合に於て烏賊漁之景」とあり、宮司様のお話しによれば松前でのイカ釣り漁の様子を描いたもので、漁の道具の使用状況がわかる点で貴重なものらしい。「大嶌小嶌」というのは松前町沖の渡島大島渡島小島のことのようだ。左側には奉納者の名前と並んで「北海道松前郡江良町村 画生 和田直次郎」、右下には「和田秀江?」とあるが、詳細不明。松前の画学生だろうか。遠景に帆船と煙を上げる洋式船が描かれているのが時代背景をうかがわせる。

 

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 95×182㎝。天明八(1788)年三月の奉納。『本荘の神仏像』には『梅竹に番鳥図』とある。「無極流捕手 高橋源七郎藤原茂永門人」と書かれている。

 

 

 

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 大鎧を着た武者が組み合っている。上に木片が付いているのは刀掛けだったのだろう。138×202.5㎝。寛政元(1789)年奉納。「慈玄流剱術源本嶽長門守十二代・・・」「関口流柔術関口柔信九代・・・」とあり、「願主 小川鉄五郎一純」とある。落款は見当たらない。

 

 

 

 

・幣殿内の絵馬と奉納物

 

 続いて幣殿の絵馬などを見ていく。向かって左手の壁面から。

 

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 縦長の大黒天図は160×61㎝。打出の小槌を抱き俵に乗っている。

 

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 「真忠勢」と描かれた扇形の額が掛かっている。163.5×242㎝。文政二(1819)年の奉納。「安盛流火術砲術 村上治郎左衛門吉勝門人 佐藤良輔秀明  門弟」。扇形の額は漆塗りのようだ。44.5×85㎝、裏の墨書は「天鷺隆喜書」とあるらしい。これは亀田藩八代藩主岩城隆喜(1791〜1854)の書かもしれない。

 

 

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  松の左右に騎馬武者が描かれている。173.5×270㎝。寛政(1798)年の奉納。「大坪本流松村四郎衞門門弟」とある。

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幣殿天井画の龍図や鳥つくし図は大正三(1914)年の作品。

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 たくさん奉納された提灯の光に絵馬がぼんやり照らされていた。

 

 

 

・本殿と本殿覆屋

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 漆塗りの本殿はさすが装飾も華やかで美しい。脇には随身や、いまの福井県で産出する笏谷石で16~17世紀に作られた狛犬(県指定有形文化財)が二体ある。

 

 

 

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 先述の『本荘の神仏像』では見当たらない龍の絵馬。本殿脇、本殿覆屋の壁にあった。

 

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 扁額「天照皇大神」67×194.5㎝。明治三十四(1901)年、国家神道の広まりを受けて奉納されたものか。本殿左手の覆屋に掛かっていた。

 

 

・まとめ

 

 全国的にも珍しいであろう武術絵馬をまとめて見ることが出来た。宮司様に改めて感謝したい。江戸後期に武備を増強したのは亀田藩だけではないはずだ。他の地域の武術絵馬とも比較してみたくなった。

 

 

 

・参考文献 『本荘市史神社仏閣調査報告書 本荘の神仏像』平成10年3月31日発行、編集執筆 大矢邦宣、発行 本荘市史編さん室

 

 

 

・松ヶ崎八幡神社・・・由利本荘市松ヶ崎字宮の腰27(※通常は一般公開していません)