・龍徳寺へ
小樽運河の喧騒から離れ、住吉町へ向かう坂を上っていく。午後の日差しがまぶしい。旧魁陽亭の横を通り坂を上りきって右に曲がるとその先には函館本線南小樽駅が右手にある。この通りは住吉線という名だ。この辺りまでくると街の雰囲気も観光地らしくなくなり、港町小樽の普通の市民生活の雰囲気を帯びてくるように感じる。
突き当りにある住吉神社の鳥居を左に曲がり勝納川を越えた先、小樽潮陵高校の手前右手に龍徳寺はある。
ちょうどお盆の時期に訪ねたため檀家さんがひっきりなしに出入りし、お坊さんたちも案内に駐車場の整理にと忙しそうだった。
龍徳寺には「船絵馬群」があり、これは文化庁が認定する「日本遺産」のうち「荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間~北前船寄港地・船主集落~」を構成する文化財となっている。
(参考・小樽市 日本遺産に追加認定されました:https://www.city.otaru.lg.jp/simin/gakushu_sports/nihonisan/nihonisan_tuikanintei.html)
おそるおそる寺務所へ行き、船絵馬を見たいという目的を告げると快く建物の中へ案内された。
そもそも曹洞宗海雲山龍徳寺は、1857(安政四)年に函館市船見町の古刹である国華山高龍寺の十八世和尚により開山された。本堂は1876(明治九)年の建築で小樽市歴史的研造物に指定されており、市内の木造寺院としては最古。今回訪れた本堂左手の金比羅殿と鐘楼は1889(明治二十二)年の創建。
(参考:小樽市指定歴史的建造物第60号龍徳寺本堂https://www.city.otaru.lg.jp/simin/gakushu_sports/kenzo/f_s/f_s60.html)
ちなみに市内最古の木造建造物は祝津の恵美須神社本殿かと思われる。こちらは1863(文久三)年の建築。
(参考:小樽市指定歴史的建造物第58号恵美須神社本殿https://www.city.otaru.lg.jp/simin/gakushu_sports/kenzo/f_s/f_s58.html)
・龍徳寺金比羅殿へ
金比羅殿に足を踏み入れると、まず正面の壁にずらっと船絵馬が打ち付けられているのが目に入った。しかも同じ壁には船絵馬以外の絵馬や奉納物もたくさん並んでいる。その下には「日本遺産」の認定証がぶら下がっていた。見回すと周囲の壁にも絵馬や奉納物がたくさんあった。
お堂は北東に面して建っていて、絵馬がたくさんある壁面は南東方向、右手の祭壇は南西方向になる。
南東の壁面から時計まわりに奉納物を見ていく。
上下二段に分かれて絵馬などが壁に打ち付けられている。
上段は左から武者絵馬が4点、次に馬を描いた絵馬が9点、文字を書いた奉納額が1点ある。
下段には左から石版画が5点、続いて船絵馬が8点、馬を描いた絵馬が1点、文字を書いた奉納額が1点あった。
上段左から以下で紹介する。
・龍徳寺金比羅殿の絵馬
一番左の画題は何だろう?水辺に入る騎馬武者の背後に竜胆を描いた白い旗があるから、源平合戦の源氏方の武将を描いたものには違いないと思う。源義経かもしれない。
右の絵馬は下の旗に「景」とあるように、「景清の錣引き」を描いたものだろう。
左の絵馬は見ての通り、京都五条大橋の牛若弁慶主従の出会いを描いたものだろう。
右の武将の鎧の胴には九曜が描かれているようにも見えるが、誰かはわからない。
絵馬の奉納年代はだいたい明治二十~三十年代のようなので、このお堂ができたころからずっとここにあるということになる。
・龍徳寺金比羅殿の石版画
右の絵は墨で大きく「明治貳?拾四年」などと書き込みがされている。下には「美人庭園愛小児圖」とある。
左の絵は「美人織縫之圖」と題がある。
右の絵は下に「小児ヲ愛ス」と題。
左は役者絵だろう。上辺には奉納と書き込まれ、左には奉納者の名前もある。右に「◯◯◯◯ 明治廿二年三月廿五日印刷? 出版」「發行者 岡村竹四郎」とあり、下に「早野勘平」とある。
右に「明治廿二年二月十日◯◯◯ 出版」「發行者 岡村竹四郎」とあり、下に「画作者?岡村政?子石◯◯◯本?鈴子」「義女大野き◯子」「信陽堂發兌」とある。
これらの石版画のうちいくつかは岡村竹四郎(1861~?)が1882(明治十五)年に創業した信陽堂が発行したもののようだ。原画を描いたと思われる岡村政子(1858~1936)は、神田駿河台のロシア正教会で宣教師ニコライから石版画の手ほどきを受け、1876(明治九)年には工部美術学校に第1期生として入学した人物だ。ちなみにイコン画で有名な山下りん(1857~1939)は同窓同期であり、岡村竹四郎と結婚した政子の代わりにロシアに派遣された。また政子は「普通小学画学階梯」などの教科書を執筆したり、明治天皇・昭憲皇太后の肖像を石版画で手掛けてもいる。
(参考・コトバンク 岡村政子https://kotobank.jp/word/%E5%B2%A1%E6%9D%91%20%E6%94%BF%E5%AD%90-1641172/佐久の先人たち:http://www.saku-library.com/books/0009/162/pdf/source/14225864536535.pdf/資料二、三片に見る福沢諭吉file:///C:/Users/satoutakumi/Downloads/AA11893297-00000017-0008.pdf)
・龍徳寺金比羅殿の船絵馬
船絵馬を見ていく。
比較的色鮮やかだ。奉納年代はだいたい明治二十年代後半である。北海道でこれほど多くの絵馬がある寺社はそう多くない。
・その他の奉納物
ここから船絵馬以外の奉納物も見ていく。堂内はたくさんの提灯がぶら下がっている。
亀が奉納されている・・・。
烏天狗の面。いい感じに年代を経ていてちょっとこわい。
よく見ると甲羅には奉納者の名前が。
武田二十四将図。あるお坊さんに訊いたところ、特に寺と武田家や武田家家臣との間に関係があるということではなく、檀家さんの誰かが奉納したのでここにあるらしい。
だいぶ傷んでいる念仏講の絵馬。
ここから北東の壁面をみていく。
大きな押絵だ。ここまでの大きさのものは全国的にも珍しいだろう。左下に「久保繁治作」。右上には「太子 單 法壹小 分入 ゐふ」と書いてあるようだが・・・。
・田本研造の写真
寺社の奉納物には写真が混ざっていることがよくある。なんの集合写真だろう?と思ってよく見ると、「田本研造製」の文字が。
田本研造(1832~1912)は三重県出身の写真家だ。函館に写真館を構えていた田本の写真で最も有名なのはいわゆる箱館戦争の際に撮った榎本武揚や土方歳三ら旧幕府軍の肖像写真だろう。また田本は開拓使の命で道路の開削など開拓事業をたくさんの記録写真に収めたことでも知られている。日本の写真史上欠かせない人物だ。
(参考・田本の肖像写真:http://archives.c.fun.ac.jp/fronts/detail/id/54d4795b1a55729dfd00d79a)
手前に並んだ野次馬のような人々は多くがこっちを振り向いている。この中には写真を撮る様子を初めて見た人もいたのではないだろうか。その奥には柵があり紋付を着た人々が並んでいる。奥の左手には石碑があり、さらに右手奥には祭壇があって古墳か何かのような盛り土がある。
(ちょっと強めに補正をかけてみた)
「うわーこんなところに田本の写真があったのか~」と少し興奮しながらデジカメで写真を撮っているとお坊さんが様子を見に来たので、この田本の写真の由来を訊いてみたが何もわからないとのことだった。しかしそこで諦めず、また別のお坊さんを呼んできてくれて訊いてみたり、台を持ってきて石碑の文字を読んでスマホで調べてくれたりした。その結果この写真の石碑は江差町にある「松澤伊八翁記念碑」だということがわかった。
松澤伊八(1835~1893)は佐渡生まれで呉服商、海産商、田畑開墾、海運業と多くの事業を手掛けた江差屈指の大商人であり、さらに初代江差郵便局長を務め、道路改修や江差灯台建設など公益事業にも功績を残した人物だ。経営する北海汽船の所有船が相次ぐ海難事故に見舞われた際には私財をもって損害補償や遭難遺族の救済のあたった。
この石碑は松澤の没後の1897(明治三十)年に建てられたようなので、田本の写真もその際に撮られたのだろう。
(参考・江差の石碑めぐり:https://www.hokkaido-esashi.jp/sekihi/monument/21/index.htm)
お坊さんたちに「田本は函館の写真家で土方歳三の写真を撮った人です」などと知っていることを話すと、「函館と言えばここは高龍寺が本山で・・・」という。この記事の最初に説明した通り、ここ龍徳寺は函館の高龍寺の十八世和尚により開山されたのだった。しかも後から調べたところ田本は高龍寺とも縁があり、1898(明治三十一)年に建築途中の高龍寺本堂を撮影していたことがわかった(※)。そのことが、いまここにこの写真があることと何か関わっているかもしれないと思うとわくわくする。
(※『photographer's gallerypress no.8 』2009年、田本研造年譜400ページより、工事中の高龍寺本堂の写真は同132ページ、160ページに掲載されている)
閑話休題。引き続き奉納物を見ていく。
おそらく竜王の額。本当は眷属や奉納物からこの神像の詳細がわかりそうだが・・・。
・「南楼」の絵馬
かなり立派な絵馬があった。
画面右側には「奉納 住ノ江町 南楼」左には「明治廿六年一月一日」「福嶋◯二本松 後藤常◯◯◯(方印)」とある。
画題は手前の人物の袴に「菊水」の紋が付いていることからみて後醍醐天皇と楠木正成ではないか。楠木正成と言えば、いわゆる「楠公桜井の別れ」の場面の絵馬はたまに見るけれど、この画題はちょっと変わっている。もしかすると、「南楼」が奉納した絵馬だから「南朝」の天皇と武将を描いているのかも?
調べると、小樽の住ノ江町は大火を契機に1883(明治十六)年に遊郭が移されたてきた場所だった。だが1896(明治二十九)年4月27日夜、住ノ江遊廓からの出火が原因で旧小樽の7ヶ町を全焼させてしまうほどの大火が発生したことで、またもや遊郭は天狗山山麓の松ヶ枝町へと移されたらしい。下記の資料では記述は見つけられなかったが、もし「南楼」が「住ノ江町」にあった遊郭だったとすれば、この絵馬は13年間の短い栄華を物語る遺産とも言える。
(参考・小樽遊郭史:https://shimamukwansei.hatenablog.com/entry/20100205/1265356430/南郭と北郭(その二)おたるむかしむかし下巻 越崎宗一:http://www.ogasawara.oswb.net/archives/18745)
ひな祭りの集合写真。あるお坊さんによれば、ここには以前幼稚園があったらしい。
絵馬の絵。陰影が施されていて不思議だ。印刷物かもしれない。
軍人の集合写真。百十数人が写っている。二名いる白い上着をきた人物が将校だとすれば、人数的にはだいたい二個小隊くらいで計算が合う。日露戦争の際に撮られた写真か。
・龍徳寺金比羅殿の外観
奉納物を見終え、金比羅殿の外にでてみた。
扁額の揮毫は西岡逾明(1835~1912)によるもの。西岡家は佐賀藩典医の家柄で、藩校弘道館に学び、明治政府に入り酒田県の権知事(現・山形県酒田市)等を歴任、フランスの議会制度を調査し大審院(現在の最高裁判所)判事をつとめるなど主に法曹として活躍した人物のようだ。
(参考・『小田原史談』連載の西岡逾明小伝を読む:http://touunji.jugem.jp/?eid=177/明治初年における左院の西欧視察団:https://www.jstage.jst.go.jp/article/kokusaiseiji1957/1986/81/1986_81_161/_pdf)
扁額の周りには龍が彫られている。
建物自体は小さいながら彫刻はかなり立派だ。
不思議なことに、狛犬が二対並んでいた。どうやら手前の狛犬の方が新しく、奥の方が古いようだ。石の色の違いは経年変化というより、材質の違いのようだ。しかも奥の狛犬は台座が二段になっている。もしかしたら更に以前に同じ形の狛犬があったのかもしれない。
・まとめ
北前船の遺産である船絵馬を見に来たのだが、それ以外の奉納物も思いのほか面白く、小樽の歴史を感じられた。この時は見てこなかったのだが、実は龍徳寺は日本最大級の木魚がある寺としても有名らしい。いつか再訪したい。
◯海雲山龍徳寺・・・北海道小樽市真栄1-3-8