西武線本川越駅から歩いて20分ほど、川越大師喜多院の近くに成田山川越別院本行院がある。
開基は1853(嘉永六)年、石川照温師による。師は1805(文化二)年生まれで、様々な困難に遭う中で三度自殺を計るも果たせなかったのは神仏に見捨てられていないからだとして成田山新勝寺で断食の苦行に入った。修行のなかで少しずつ目が見えるようになりついに平癒した師は不動明王の大慈悲に感激、出家得度し諸国巡歴の末、徳を慕う協力者を得て川越で廃寺となっていた本行院を再興し成田山の御本尊の分霊を授与せられた。1877(明治十)年からは本山の最初の別院として管理下に入り成田山本行院と公称するようになった。
境内には出世稲荷や福寿殿(恵比寿様を祀る)、大師堂(弘法大師、興教大師、理源大師を祀る)のほか、師の像が安置された開山堂があり、眼病治癒祈願の「めめ」の絵馬がかけられている。
(参考:http://www.kawagoe-naritasan.net/htop.htm)
額堂は大師堂と一体になっている。周囲には「四国八十八カ所お砂踏み霊場」があり各霊場から持ってきた砂が碑とともに地面に埋め込まれていて、それらを踏んでお参りできる。額堂内にはガラスケースもあり講に関する資料などが納められていた。
左上に幽霊のように浮かんでいるのは百足の頭だろうから、おそらく藤原秀郷(俵藤太)を描いたものだ。
不動明王は矜羯羅童子と制多迦童子の二童子を脇侍として表されることが多い。眷属として三十六童子や四十八使者というのもいるらしい。それらを描いたものか。にぎやかな絵だ。
赤くないが、能の演目の「猩猩」だろう(猩々は本来赤い)。
よく見ると、不動明王が持つ剣の先に僧形の人物がいる。夢に現れた不動明王が喉に剣を差し入れ智慧を授けたという祐天上人の逸話を描いたのだろう。
だいぶ色あせているが七福神を描いているようだ。
船の上に不動明王が描かれている。太平記に、仇討ちを済ませた阿新丸が追手から逃げるために行者が不動明王に祈念するシーンがあるらしい。
小さめの額堂だ。不動明王にまつわる絵馬ばかりなのが興味深い。
すぐ近くには川越大師喜多院がある。