絵馬ブログ

絵馬、絵馬堂についてのブログ。ほぼ月一回更新。/筆者:佐藤拓実/訪れた絵馬スポットの数:54(番外編:6)/ツイッター @EMA_blog_

日限地蔵尊諏訪山観音院前 栗原商店の絵馬

f:id:kotatusima:20210710233609j:plain

(日限地蔵尊のお堂)  

 

  

 
・日限地蔵尊(ひぎりじぞうそん)諏訪山観音院の概要

  
 織物の産地として知られる群馬県桐生市のJR桐生駅から歩いて約20分、駅前の商店街を抜け織物工場が点在する住宅街に入ると真言宗豊山派日限地蔵尊諏訪山観音院がある。創建は1644(正保元)年とされる。本尊は聖観世音菩薩であるが、有名なのは毎月24日が縁日の日限地蔵尊である。

 日限地蔵尊の由来となった昔話が伝わっている。

 この地に昔あった大きな機屋の窓に毎晩現れる不思議な影を怪しんで鉄砲で撃った(!)ところ観音院の庭で血の跡が消えていた。機屋の主人の夢枕に地蔵が立って「日にちを決めて願掛けすれば叶えよう」とお告げした。のち、庭から肩に鉄砲玉の跡のある地蔵が見つかり村人がお堂を建て祀ったところ機屋は繁盛、地域の産業となった。のち、このお堂が日限地蔵尊になったというわけだ。(観音院のパンフレットより)。機屋のできごとが昔話の中心なのが桐生らしい。

  観音院の境内は仁王門からまっすぐ奥へ続く参道の正面に本堂、その手前左手に日限地蔵尊のお堂を中心として、鐘楼堂、不動尊六地蔵、諏訪弁財天、目と歯の神様である禰宜師(ねぎし)大明神(玉葱を持ち帰って願掛けし願いが叶ったら再び玉葱を供える)とともに子授けと開運の神様である金精(こんせい)大明神を祀る両神堂などが点在し、本堂横にも大黒天がある。そのほか境内には小さい祠や仏像がいくつかあった。

 境内の諸堂では束になった線香や飴などとともに他所では見たことがない小絵馬がたくさん奉納されていた。10数センチ×20センチくらいの縦長の板をベースにして、五角形に見えるよう縁が付けられ、ビニール袋に入っている。日限地蔵尊のお堂にはもちろん地蔵尊の、弁財天には蛇の、禰宜師大明神には目の、金精大明神にも蛇の絵柄の小絵馬が、それぞれ奉納されている。小絵馬には奉納者の名前や年齢、干支などは書き込まれていないようだった。

  

f:id:kotatusima:20210710234245j:plain

(通りに面した敷地の角には大きな看板がある)

f:id:kotatusima:20210710233705j:plain

(仁王門)

f:id:kotatusima:20210710234035j:plain

f:id:kotatusima:20210711001608j:plain

f:id:kotatusima:20210711001712j:plain

f:id:kotatusima:20210711001550j:plain

(断酒道仙様。断酒の神様らしい)

f:id:kotatusima:20210710234355j:plain

f:id:kotatusima:20210710234601j:plainf:id:kotatusima:20210710234532j:plain

f:id:kotatusima:20210710234541j:plain
(諏訪弁財天)

f:id:kotatusima:20210711001451j:plain

(輪投げ)

f:id:kotatusima:20210711001444j:plain

(御足参道)

f:id:kotatusima:20210710234404j:plain
(休憩所)f:id:kotatusima:20210711000353j:plain

賓頭盧尊者

f:id:kotatusima:20210711000809j:plain

六地蔵

f:id:kotatusima:20210710234400j:plain

 

f:id:kotatusima:20210710234728j:plain

f:id:kotatusima:20210710235439j:plain

(日限地蔵尊に奉納された絵馬)

f:id:kotatusima:20210710235444j:plain

(小さい地蔵尊の仏像も奉納されている)

f:id:kotatusima:20210711000441j:plain

f:id:kotatusima:20210711000709j:plain

f:id:kotatusima:20210711001219j:plain
(本堂)

f:id:kotatusima:20210711001303j:plain

(水かけ不動尊

f:id:kotatusima:20210710235636j:plain両神堂。二つの神が祀られている)

f:id:kotatusima:20210710234823j:plain

f:id:kotatusima:20210710234837j:plain

f:id:kotatusima:20210710234858j:plain

f:id:kotatusima:20210710234902j:plain

(金精大明神)

f:id:kotatusima:20210710234809j:plain

f:id:kotatusima:20210710235911j:plain

f:id:kotatusima:20210710235915j:plain

f:id:kotatusima:20210711000200j:plain

禰宜師大明神)

f:id:kotatusima:20210711000330j:plain
f:id:kotatusima:20210710235546j:plain

f:id:kotatusima:20210710235612j:plain

f:id:kotatusima:20210710235605j:plain
 
 

 

 

 
・栗原商店の小絵馬

 

 観音院の諸堂に奉納されていた小絵馬は境内では授与していない。仁王門の前の道路を挟んですぐ向かいにある栗原商店で売られているものだった。

 店先にはお菓子や飴、線香の束と並んで、カラフルな小絵馬が並ぶ。看板には「お線香 賣場」「美しい手描き お絵馬 お絵馬にお願ひことを託して供へると お願ひごと叶うと言ひ伝つております」と書いてあった。

 

f:id:kotatusima:20210711001805j:plain

f:id:kotatusima:20210711001944j:plain

f:id:kotatusima:20210711001954j:plain

f:id:kotatusima:20210711002027j:plain

f:id:kotatusima:20210711002035j:plain

 
 店内にもおもちゃなどとともに小絵馬が並べられている。

 見たところ図柄は目、耳、手、足、母乳を出す女性、母子、鼠、弁財天の祠、地蔵、餅、蛇などがあり、見本として干支の絵馬も飾られていた。20種類以上は描かれていそうだ。色遣いは図柄ごとに決まっているわけではなく、板に小さい釘で打ち付けられた五角形の縁の色は赤、青、緑、橙、黒、紫、桃などがあり、地蔵や描かれた女性の着物の色も小絵馬ごとに違う。

 

f:id:kotatusima:20210711140522j:plain

f:id:kotatusima:20210711002152j:plain

f:id:kotatusima:20210711002136j:plain

 

・栗原商店の絵馬師

 

 少しお店の方にお話を伺った。この小絵馬は、20年ほど前に亡くなった先代のご主人(栗原六三郎さん)がたくさん描き残した在庫を今も売っているもので、六三郎さんは生前は毎日小絵馬を描いていたという。

 店内に飾られた1993年1月27日付けの新聞記事(新聞社名は不明)によれば、栗原六三郎さんの仕事は桐生織物の図案を描く意匠屋で、15歳の頃に仕事の傍ら願掛けに来る人たちのために描き始めたという。六三郎さんは掲載時79歳と書かれているので、90年以上この地で絵馬が売られていることになる。以前は付近に他の絵馬屋もあったのだろうか。六三郎さんがどのように絵馬の図柄や作り方を習得したのか気になる。その習得の過程は、隣接する足利市などこの地域の神社で小絵馬奉納の風習が盛んだったことと無縁ではないだろう。

 お店の中には、新聞記事の写真で栗原六三郎さんの背後に写っているものと同じ大きな地蔵の絵馬も飾られていた。

 

f:id:kotatusima:20210711002303j:plain
f:id:kotatusima:20210711002257j:plain

(お店の陳列台にも小絵馬が)

f:id:kotatusima:20210711002252j:plain

f:id:kotatusima:20210711003856j:plain

(大きな地蔵尊の絵馬)

 

 

 

・栗原商店の利用案内

 
 栗原商店は営業日や時間帯は特に決めていないが、日限地蔵尊の縁日(毎月24日)ははやくからお店を開けているとのこと。特に一月の初地蔵と十二月の納め地蔵は賑わうという。

 かつては全国で行われていたであろう小絵馬奉納の風習を垣間見ることができた。それが残っているのは群馬県のこの地域ならではだろう。また来てみたい。

 

 

 

・日限地蔵尊諏訪山観音院・・・群馬県桐生市東2-13-18

・栗原商店・・・群馬県桐生市東2-14

 

 

 

勇払恵比須神社の絵馬と奉納物

f:id:kotatusima:20191231183736j:plain

 

勇払恵比須神社の概要

 

 王子製紙の工場や苫小牧港を有する北海道苫小牧市付近の開拓は、1800(寛政十二)年の八王子千人同心と呼ばれる幕臣一団の移住に始まるとされる。その最初の入植地が勇武津(ゆうふつ、現在の苫小牧市勇払)であった。明治に入り開拓使出張所は当初勇払に置かれ、のち苫細(現在の苫小牧)に1873(明治六)年に移転、これが市の開基となっている。

 千人同心の入植以前にもすでに1669(寛文九)年頃の『津軽一統誌』に「勇払在家百軒東蝦夷地屈指なり」の記録が残されているらしく、1799(寛政十一)年に幕府が東蝦夷地を直轄した際に勇武津会所(交易所、幕吏の出張所のこと)がおかれたのは、太平洋側では函館から千島へ、日本海側では石狩を通って樺太までのルートの分岐点にあたる交通の要所であって、また勇武津の内陸部シコツは鮭漁が盛んな地域でもあったことがその理由としてあるようだ。

 その勇武津におかれた「場所」(アイヌと交易を行う特定の地域のこと)である勇武津場所をはじめ蝦夷地の多くの場所の支配人を勤めたり請け負ったのが能登出身の商家で代々文右衛門を名乗った山田家で、勇払恵比須神社には山田家による奉納物がたくさんある(場所請負についてはこちら)。山田家が勇武津場所を請け負ったのは八代文右衛門有智の晩年の1821(文政四)年、そこから1868(明治元)年まで山田家の請負であった。

 

 苫小牧市のウェブページによれば勇払で最も歴史的に古い由来を持つ堂社は、およそ18世紀(1701~1800)半ばに設立された弁天社といわれ、ほかに勇払の堂社には山田家が創建した竜神社などもあった。それらのうち、弁天社、竜神社に加え大黒天社が統合され事代主社となり、これが現在の恵比須神社の前身となったという。

 ちなみに北海道神社庁のウェブページでは恵比須神社の創建について、正確に記録された文献等がないが1951(昭和二十六)年4月時の神職である永井暁が北海道庁に提出した神社明細報告では、南部左井の住人樋口某奉納の宮形(神棚)の側面に墨書された1850(嘉永三)年9月9日としている。南部佐井とはおそらく旧南部藩領で現在の青森県佐井村のことで、下北半島西側に位置し1803(享和三)年に幕府が佐井を蝦夷渡航の港と定めて以来明治初頭に至るまで北国廻船(弁材船・北前船)の往来があり、海産物と木材の積み出しで繁栄した場所だから樋口某もやはり山田家に関係のある商人や使用人だったのだろうか。

 当神社は従来『蛭子(エビス)神社』の社号で祀られたが、1952(昭和二十七)年3月現社号『恵比須神社』と変更した。1957(昭和三十二)年、勇払107番地の社殿を勇払138番地に移転改築し今日に至っている。

 1961(昭和三十六)年10月、当神社の奉納品21点が苫小牧市指定文化財として指定されている。

 以下ではこの神社に奉納された絵馬や扁額を見ていく。なお実物は苫小牧市美術博物館に所蔵され、今回見たのは神社置かれている複製品である。神職さんに伺ったところ現物は図像がほとんど判別できないほど傷んでいるらしい。

 

(※参考・北海道神社庁https://hokkaidojinjacho.jp/%E6%81%B5%E6%AF%94%E9%A0%88%E7%A5%9E%E7%A4%BE/)

(※参考2・苫小牧市 市指定民俗文化財 勇払恵比須神社奉納品21点

https://www.city.tomakomai.hokkaido.jp/kyoiku/shogaigakushu/bunka/bunkazai/shinobunkazai/ebisu.html

(参考3・ロバート・G.フラーシェム, ヨシコ・N.フラーシェム『蝦夷地場所請負人  山田文右衛門家の活躍とその歴史的背景』北海道出版企画センター、1994年)

 

 

 

   

勇払恵比須神社の奉納物

 

f:id:kotatusima:20191231184018j:plain

  

 3枚の扁額。「住吉丸」は勇武津場所請負人の山田文右衛門の持ち船の名前。

 「樽前大權現」とは、苫小牧市の総鎮守である樽前山神社の江戸時代の呼び名。なお樽前山神社には1865(元治二)年に奉納された手水鉢があり、「願主 山田文治 支配人 山田仁右衛門」と刻まれている。これは山田家十一代山田文治と支配人山田仁右衛門によるもの。山田仁右衛門家は七代山田文右衛門の娘の蔦が別家した家。

 「雙鶴」は縁起のいい字を扁額にして奉納したものか。

 

f:id:kotatusima:20191231184053j:plain 

 

 扁額「辯才天」。「東武墨水面龍眼拝書」の刻文に加え二か所に印があるらしい。

 

f:id:kotatusima:20191231184026j:plain

 

 扁額。「奉納 樽前大権現」。1865(元治二)年に函館の商人である杉浦嘉七と支配人の福島屋金四郎が奉納したものとキャプションにある。なお杉浦嘉七は四代続いており、この時は二代(?~1876(明治九))だろう。

 

(※参考:コトバンク 杉浦嘉七(2代)

https://kotobank.jp/word/%E6%9D%89%E6%B5%A6%E5%98%89%E4%B8%83%282%E4%BB%A3%29-1083596

 

f:id:kotatusima:20191231184225j:plain

 

 扁額「弁財天」。彩色や金箔が剥がれ落ちてしまい白木になったらしい。

 

f:id:kotatusima:20191231184030j:plain

f:id:kotatusima:20210618004733j:plain

 

 句額。キャプションによれば1840(天保十一)年に奉納されたもの。「松前 香風」「幽里」の文字が見える。奥羽俳壇四天王中の長ともいわれ与謝蕪村の最初の注釈書『蕪村発句解』をあらわした俳人の岩間(松窓)乙二が1810(文化七)年に箱館に渡り高龍寺の付近に庵を結んで「斧柄社(おののえしゃ)」と称したのが蝦夷地最初の俳句結社であるという。「香風」と「幽里」もその流れをくむ俳人かもしれないし、場所に関わる商人の俳号の可能性も十分ある。

 

(※参考:コトバンク 岩間乙二

https://kotobank.jp/word/%E5%B2%A9%E9%96%93%E4%B9%99%E4%BA%8C-15586

(参考:函館市史 通説編第1巻 第3編 古代・中世・近世 第4章 松前家復領と箱館
第7節 宗教・教育・文化 3 文化 乙二と「斧柄社」P544-P545

http://archives.c.fun.ac.jp/hakodateshishi/tsuusetsu_01/shishi_03-04/shishi_03-04-07-03-02.htm

 

 

f:id:kotatusima:20191231184230j:plain

 

 絵馬。「奉納 御寶前」「文政元歳」「戊寅六月吉日」とある。西暦でいうと1818年。キャプションによれば1818(文政十一)年に奉納されたものらしい。図柄は仁田四郎忠常の猪退治。ここに書かれた富士山を樽前山への見立てと言ってしまうのは無理があるだろうか。

 

f:id:kotatusima:20191231184235j:plain

 

 縦長の絵馬。教育委員会のサイト等では単に「騎馬武者」とだけされているが、長烏帽子の兜、前立の蛇の目、片鎌槍から考えて、馬上の人物は加藤清正で間違いないだろう。背に差した旗にはお題目が書かれていたのかもしれない。

 
f:id:kotatusima:20191231184103j:plain

f:id:kotatusima:20191231184107j:plain

f:id:kotatusima:20191231184116j:plain

f:id:kotatusima:20191231184218j:plain

  

 吊灯籠がふたつ。「願主 山田文治」「支配人 山田仁右エ門」とある。先述の樽前山神社の手水鉢も同じ二人が寄進している。

 

 

 

勇払恵比須神社の屋外の文化財

 

f:id:kotatusima:20191231184344j:plain

f:id:kotatusima:20191231184717j:plain

 
 石灯籠の笠が重石として活用されている・・・。

 

f:id:kotatusima:20191231184448j:plain

 

 この日はちょうど祭禮の日で社務所神職さんや氏子さんがたくさんいらっしゃっていたので奉納物を見せていただくことができた。お忙しいところご面倒をおかけしてしまった。

 
f:id:kotatusima:20191231183742j:plain

f:id:kotatusima:20191231183750j:plain
f:id:kotatusima:20191231183757j:plain

f:id:kotatusima:20191231183812j:plain

 

 円形の手水鉢。八方(東、西、南、北、艮、巽、坤、乾)が刻まれている。足の部分には「文久四甲子年正月吉日」「願主 請負人 山田文右衛門」「支配人 山田仁右衛門」とある。文久四年は西暦1864年。寄進者の山田文右衛門は十代清富。これは方角石を模した珍しいもの。方角石とは、船乗りが空模様をみたり役人が港に出入りする船を確認するのに使った高台である日和山にしばしば置かれた方角を刻んだ石のこと。

 なおこの手水鉢とほぼ同じものが浜中町榊町の金刀比羅神社にあり、寄進年月は刻まれていないが山田文右衛門とある。町名は十代文右衛門清富の娘婿である榊富右衛門に由来するそうだ。

 

f:id:kotatusima:20191231183818j:plain
f:id:kotatusima:20191231183823j:plain
f:id:kotatusima:20191231183827j:plain

 

一対の石燈篭。「文久四甲子月日」「願主 請負人 山田文右衛門」「支配人 山田仁右衛門」「通詞 喜兵衛」「帳役 和兵衛」とある。上記の手水鉢と同じタイミングで寄進したものか。

 

f:id:kotatusima:20191231184515j:plain

 

「奉納 日高石」。 

 

f:id:kotatusima:20191231184435j:plain

f:id:kotatusima:20191231184500j:plain

 

1952(昭和二十七)年3月の社号変更前の「蛭子神社」の石柱。

 

f:id:kotatusima:20191231184506j:plain


土俵があった。

 

f:id:kotatusima:20191231184523j:plain





f:id:kotatusima:20191231184352j:plain

 

王子ネピアの工場の煙突が見えた。

 

 

 

 勇払恵比須神社・・・北海道苫小牧市勇払138-1